第2話:飢えなき国の礎
信虎が逆行転生してからの数年間は、
甲斐の国の土台を根底から固める日々だった。
彼の心には、戦国大名としての野望以上に、
未来の記憶が焼き付いていた。
それは、刀と槍が交錯する戦場の惨劇だけではない。
飢饉による餓死者の山。
疫病が村々を覆い尽くす、静かなる絶望。
それらが、いかに多くの命を奪い、
国を内側から蝕むかを知っていた。
信虎にとって、戦国の世で最も恐ろしい敵は、
敵兵の刃ではなく、飢えと病であった。
それらを根絶することこそ、
「血を流さぬ天下」への第一歩だと、
彼は確信していた。
―かつて見た、都市の地下で餓えに朽ちた老人の眼は、忘れられぬ。
彼は、その記憶に突き動かされるように、
自らの足で領内の村々を巡った。
土を踏み、川の水を掬い、民の暮らしを肌で感じた。
彼の脳裏には、研究室の設計図と、
この荒れた甲斐の地の地形が、
幾重にも重なって映し出されていた。
まず着手したのは、食料の安定供給だった。
影書院の奥深く、蝋燭の灯りが揺れる中で、
信虎は古びた紙に、未来の農業技術の知識を記させた。
それは、数年で新種を生み出す奇跡ではない。
地道で、しかし確実な、
「選抜育種」という手法だった。
信虎は、信頼する農政官を集め、その資料を見せた。
「田んぼの中から、特に実入りの良いもの、
冷害に負けぬものを選び出し、
翌年の種籾とせよ」
農政官たちは、その合理的な指示に驚き、
指示通りの選抜と、交配に適した親系統を模索した。
数年の試行錯誤の末、
農民たちの手によって、
冷害に強い稲が着実に増えていった。
その青々とした稲穂は、風に揺れるたび、
未来の恵みを約束しているかのようだった。
信虎は、この地道な努力で生まれた米を「虎御膳」と名づけた。
「虎の国を支える、恵みの米となる」
彼の言葉は、まるで神託のように、
農民たちの間に静かに、しかし確かな希望とともに広まっていった。
米だけに頼る脆い食料供給は、彼の目指す安定とは相容れなかった。
信虎は、甲斐の土壌と気候に合わせ、
麦や粟、稗、黍といった多様な雑穀の栽培も奨励した。
特に力を入れたのは、大豆の生産だった。
高タンパクで保存性に優れる大豆は、
飢饉の際の命綱となり、民の体力を支える重要な糧となる。
信虎は、大豆の栽培面積を大幅に拡大させただけでなく、
その加工品の製造法を、村々に徹底して広めさせた。
「味噌、醤油、豆腐、納豆……これらを、
各家庭で作り、保存せよ」
彼の命を受けて、農政官たちは、
村々に職人を派遣し、大豆の発酵技術や、
簡単な製法を教え込んだ。
その日、善六(ぜんろく)という若き農夫の家には、
味噌づくりを教える役人の姿があった。
大鍋で煮詰まる大豆の、香ばしい匂いが、
村の風に溶けていった。
善六は、役人の手元を食い入るように見つめ、
妻のおりんは、子供を背負いながら、
桶に盛られた味噌の塊を、感動したように見つめていた。
「これで、冬も安心だべか」
おりんの呟きに、善六は力強く頷いた。
これまで一部の裕福な層しか口にできなかったものが、
各家庭の食卓に上るようになったのだ。
栄養価の高い味噌汁は、日々の食卓の中心となり、
子供たちの顔色に生気が宿り、
病で臥せる者が減っていく様は、
信虎の改革が、机上の空論ではないことを証明していた。
納豆の糸をすする子供の手は、以前よりも確かに力強くなっていた。
村の広場では、子供たちが元気な声を上げて遊んでいた。
彼らの頬にはかつての陰りはなく、
未来への光が宿っているようだった。
食の安全も、彼の重要な課題だった。
未来の記憶には、食中毒や伝染病が、
いかに多くの命を奪い、国を混乱に陥れたかという記録があった。
信虎は、衛生に関する知識を細かく指示した。
井戸水の清潔保持、食材の丁寧な洗浄、
調理器具のこまめな手入れ、肉や魚への火の通し方。
これらは、当時の常識では、些末なことと見過ごされがちだった。
しかし、信虎は、巡察使を通じて、これらの基本的な衛生知識を、
村の長や、村の女性たちにまで徹底させた。
「飢えと病から民を守ることこそ、武士の、
いや、国主の務めよ。清き水、清き食、清き心、
これなくして国は栄えぬ」
彼の言葉は、民の心を深く捉え、
「殿様は、我らの暮らしの細部にまで心を配ってくださる」と、
感謝と信頼の念を生み出していった。
甲斐の国では、他国が飢饉や疫病で苦しむ中、
奇跡のように穏やかな暮らしが続いていった。
飢えで倒れる者は稀となり、
病が蔓延することも少なくなった。
「殿様は、仏様の生まれ変わりではないか」
そんな噂が、歩き巫女たちの囁きとともに、
甲斐の国中に広まっていった。
それは、信虎が目指す「見えざる支配」の、
静かなる序曲でもあった。
民は、刀や槍の力ではなく、
日々の食卓の豊かさによって、
武田の統治を心の底から受け入れていったのだ。
信虎の改革は、血を流さず、
民の命と心に直接訴えかける、
他に類を見ない「飢えなき天下布武」の基盤を、
着実に築き上げていった。
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