第3話:あなたのための歌
凛火が許してくれた「今日だけ」は、いつの間にか三日になり、一週間になった。
私たちはほとんど言葉を交わさなかった。私は日中バイトに行き、凛火は昼過ぎにどこかへ出かけていき、夜中に傷を増やして帰ってくる。その傷を、私が黙って手当てする。そんな奇妙な毎日が、まるで当たり前のように繰り返された。
凛火は私の過去を聞かなかったし、私も彼女の過去に踏み込まなかった。ただ、彼女が時折、右腕の古い傷跡を左手でなぞるのを見て、その傷だけが特別な意味を持っていることだけはわかっていた。
その日、私はプロデューサーに呼び出され、グループの解散を告げられた。
理由は、資金の持ち逃げ。あっけない幕切れだった。私のアイドルとしての人生は、本格的に始まる前に終わってしまった。
アパートに帰ると、凛火は珍しく家にいた。ソファで、フェンシング用の剣(エペ)の手入れをしている。その剣身は、彼女の瞳のように鋭く、冷たい光を放っていた。
「……ただいま」
「ああ」
短い返事。私は、グループが解散したことを言い出せなかった。
ここで追い出されたら、今度こそ本当に終わりだ。凛火との奇妙な同居生活は、いつの間にか、私がこの世界に繋ぎ止められている最後の糸になっていた。
「練習、しないのか」
「え……?」
「歌の。いつもしているだろう」
凛火の言葉に、私は俯いた。
「もう…意味ないから」
「……」
「私、もう、アイドルじゃなくなったから……」
涙がこぼれそうになるのを、必死で堪える。凛火は剣を置くと、静かに立ち上がった。そして、私の目の前に来ると、じっと私の顔を覗き込んだ。
「意味がないかどうかは、お前が決めることじゃない」
「でも…!」
「歌いたいんだろう。だったら、歌え」
その瞳は、有無を言わさぬ力強さを持っていた。
私は、まるで操られるように、自室の隅でいつも使っている安物のキーボードの前に座った。指が震えて、うまく鍵盤を押さえられない。
「歌えないよ…もう、何のために歌えばいいのか、わからない…」
「俺のために歌え」
凛火の言葉は、命令でも、懇願でもなかった。
ただ、そこに存在する事実のように、静かに響いた。
「お前の歌が聴きたい」
その一言が、私の心の奥底で、何かの栓を抜いた。
私は、鍵盤に指を置いた。
これまで、ファンに媚びるために、プロデューサーに認められるために、お金を稼ぐために歌ってきた。でも、今から歌うのは、誰のためでもない。ただ一人、目の前にいる、傷だらけのあなたのために。
ゆっくりと、メロディを奏で始める。
それは、私がアイドルになる前に、たった一人でこっそり作っていた、誰にも聴かせたことのない曲だった。私の本当の、心の叫び。
歌い始めると、涙が溢れてきた。
ステージの上で流すことを禁じられていた、本物の涙。
情けなくて、悔しくて、でも、ほんの少しだけ温かい。
歌い終えた時、凛火は何も言わなかった。
ただ、静かに私の隣に座ると、震える私の肩を、不器用に、しかし力強く抱きしめた。
その腕の中から、消毒液と、鉄と、そして、今まで気づかなかった、ほんのり甘いシャンプーの匂いがした。
この匂いを、私はきっと、一生忘れないだろうと思った。
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