第2話:傷に触れる指先

凛火のアパートは、彼女自身と同じ匂いがした。

消毒液と、微かな鉄の匂い。そして、あらゆる感情を拒絶するような、がらんとした孤独の匂いだ。


「……あの、ありがとうございました」


コンビニで買った一番安いタオルを濡らしながら、私はか細い声で礼を言った。凛火は何も答えず、ソファに深く腰掛け、無言で私を見ている。その視線は、値踏みするでもなく、興味を示すでもなく、ただそこに「モノ」があるのを確認しているかのようだった。


「これ…血、ついてるので」


濡らしたタオルを差し出すと、凛火は一瞬だけ躊躇う素振りを見せ、それから静かに受け取った。彼女が頬の返り血を拭う。白いタオルに、生々しい赤がじわりと広がった。それを見ていると、自分の体温が少しだけ上がるのを感じた。


「……名前は」

「え?」

「名前を聞いている」


低く、温度のない声だった。

「あ、藍原、し、詩凪です。しな、です」

「そうか」


会話はそれきりだった。凛火は立ち上がると、クローゼットから古びた毛布を一枚取り出し、床に投げた。


「今夜はそこに寝ろ。朝になったら出ていけ」

「……」

「私に関わるな。面倒はごめんだ」


その背中に向かって、「住む場所がないんです」という言葉が喉まで出かかった。ネットカフェの料金も払えず、追い出されたこと。もうどこにも行く当てがないこと。しかし、言葉にはならなかった。彼女の背中が、私と同じくらい、あるいはそれ以上に、世界から拒絶されているように見えたからだ。


私は黙って毛布を拾い上げ、部屋の隅で体育座りになった。

凛火はソファに戻ると、まるで私が存在しないかのように、黙々とファイトで負ったらしい腕の傷の手当てを始めた。慣れた手つきで消毒液を脱脂綿に浸し、傷口を拭う。そのたびに、彼女の肩がわずかに震えるのが見えた。


腕だけじゃない。Tシャツの袖から覗く肩や、首筋にも、無数の痣や切り傷があった。新しいもの、古いもの。その一つ一つが、彼女がどれだけの夜を、たった一人で戦い抜いてきたかを物語っていた。

その中に、ひとき聞わ目立つ傷跡があった。右腕の、肘の内側。まるで稲妻のような形で、皮膚が引きつっている。他の打撲や切り傷とは明らかに違う、古い、癒えることを諦めたような傷跡。

あれは、なんだろう。


「……何を見ている」


いつの間にか、凛火がこちらを睨んでいた。その瞳には、初めて剥き出しの警戒心が宿っていた。

「あ、いえ、ごめんなさい…」

私は慌てて視線を逸らす。見てはいけないものを見てしまった、と本能が警告していた。あれは、彼女の魂に直接刻まれた傷なのだと。


その夜、私はほとんど眠れなかった。

凛火も同じだったようだ。時折、ソファの上で彼女が苦しげに身じろぎするのが、暗闇の中でわかった。


私たちは同じ部屋にいながら、それぞれ別の地獄にいた。

ただ、その地獄の温度だけが、少しだけ似ているような気がした。


夜が明ける頃、私は眠ることを諦めて立ち上がった。凛火のキッチンを勝手に借りて、冷蔵庫にあった卵と米で、簡単な粥を作る。これも、ネットカフェの深夜バイトで覚えたことだ。


湯気の立つ粥をテーブルに置くと、いつの間にか起きていた凛火が、怪訝な顔でそれを見ていた。


「……何だ、これは」

「……お腹、空いてるかなって」


凛火はしばらく黙っていた。そして、小さな声で「いらない」と呟いた。

でも、その声は昨夜のような突き放す響きではなく、どこか戸惑っているように聞こえた。


私は何も言わず、自分の分だけを黙々と食べた。味はほとんどしなかった。

食べ終えて、部屋を出ていこうとドアに手をかけた時、背後から声がした。


「……今日だけだ」

「え?」

「今日だけなら、いてもいい」


振り返ると、凛火はテーブルの上の、まだ湯気の立つ粥をじっと見つめていた。

その横顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだ。

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