第4話:獣の鎮魂歌
その日を境に、私たちの関係は少しだけ変わった。
凛火は、私が歌の練習をしていても何も言わなくなった。むしろ、ソファに座って、剣の手入れをしながら、じっと私の歌に耳を傾けていることが増えた。その視線は、もはや私を「モノ」としてではなく、何かを確かめるように、静かに見つめている。
私の方も、少しだけ変わった。
凛火が夜中にファイトから帰ってくると、以前は恐る恐る手当てをしていた傷に、今は迷いなく指を伸ばせるようになった。消毒液がしみる瞬間に凛火が漏らすかすかな呻き声も、彼女が生きている証のように聞こえた。
その夜、凛火は特にひどい傷を負って帰ってきた。
唇は切れ、目の周りはどす黒く腫れ上がっている。Tシャツは破れ、脇腹からは血が滲んでいた。
「……ひどい怪我」
「問題ない」
そう言ってソファに崩れ落ちる凛火の体からは、尋常ではない熱気が発せられていた。呼吸も荒い。明らかに無理をしている。
「脱いで」
「……は?」
「服。脱がないと、手当てできないでしょ」
私の有無を言わさぬ口調に、凛火は一瞬驚いた顔をしたが、やがて諦めたように、ゆっくりと破れたTシャツを脱いだ。
その下に現れた身体は、私が今まで見たこともない、壮絶な戦いの痕跡で埋め尽くされていた。数えきれないほどの痣、切り傷、そして、まるで獣に爪で引き裂かれたかのような、大きな傷跡。
私は息を呑んだ。
これは、ただの喧嘩じゃない。命のやり取りだ。
彼女は毎晩、こんな地獄を生き抜いて、この部屋に帰ってきていたのか。
脇腹の傷は深かった。素人がどうこうできるレベルではない。
「病院に行かないと…!」
「行けるわけないだろう」
凛火が、苦しげな息の下で吐き捨てる。そうだ、彼女のいる世界は、法も、常識も通用しない場所なのだ。
私は救急箱を取り出し、ありったけの知識で傷の手当てを始めた。消毒液で血を拭い、ガーゼを当てる。凛火は歯を食いしばり、痛みに耐えていた。その額に、脂汗がびっしりと浮かんでいる。
「……なぜ、そこまでする」
凛火が、掠れた声で尋ねた。
「……わからない」
正直な気持ちだった。
同情? 憐れみ? 違う。もっと別の、名前のつけられない感情が、私の胸を渦巻いていた。
「でも…見てられないから」
「……」
「あなたが、壊れていくのを見てるのは、嫌だから」
手当てを終えると、凛火はぐったりとして、熱い息を吐いていた。
私は濡らしたタオルで、彼女の汗を拭いてやる。その時、ふと、あの歌が頭に浮かんだ。
凛火が、初めて私の歌を求めてくれた、あの歌。
私は、自然と口ずさんでいた。
キーボードもない、アカペラの、小さな歌。
それは、傷ついた獣を眠らせるための、子守唄のようだった。
歌声に、凛火の荒い呼吸が、少しずつ穏やかになっていくのがわかった。
強張っていた身体から力が抜け、やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
私は歌うのをやめ、眠る凛火の顔を見つめた。
あどけない、とさえ思える寝顔。毎晩、地獄で戦っている獣の姿はどこにもない。
ただ、傷だらけの、一人の女の子がいるだけだった。
その時、初めて気づいた。
彼女の暴力は、彼女自身をも深く傷つけているのだと。
そして、私の歌だけが、その痛みを、ほんの少しだけ和らげることができるのだと。
凛火の頬に、そっと指で触れる。
熱い。
この熱が、私に何かを伝えようとしている気がした。
私の歌は、あなたの鎮魂歌に。あなたの傷は、私の歌の源に。
私たちは、二人で一つなのかもしれない。
そんな、恐ろしい考えが、頭をよぎった。
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