第50話『運命の扉』
決戦の日の朝が来た。
ウォンラット家の食卓は、異常なほどの静寂に包まれていた。母ノイが、願掛けのために作ったであろう豪勢な朝食に、誰もほとんど手をつけられない。
父サクダーは、落ち着きなく新聞をめくり、妾マリカは、氷のような無表情で、ただ一点を見つめている。兄たちは、この重要な日に、気を遣ってか、まだ部屋から出てこない。
車に乗り込み、試験会場へと向かう。
窓の外を流れていくバンコクの街並みが、やけに非現実的に見えた。
隣に座るピムは、顔を真っ青にして、固くこぶしを握りしめている。昨夜の決意は、目前に迫った現実の重圧の前に、かき消されそうになっていた。
会場である大学のキャンパスに到着すると、そこは既に、受験生と、その親たちでごった返していた。
数千人、いや、それ以上の人間が発する、期待と不安の入り混じった熱気が、まるで巨大な渦のように、俺たちを飲み込もうとする。
「ウィン、ピム! 落ち着いて、全力を出すのよ!」
「お前たちならできる! ウォンラット家の名誉を思い出せ!」
母と父が、車から降りた俺たちに、最後の言葉をかける。
その喧騒と、家族からのプレッシャーに、ピムの肩が、微かに震えたのが分かった。
彼女は、もう、潰れてしまいそうだった。
俺たちは、家族に一礼し、試験会場の入り口へと歩き出す。
その時、ピムの足が、ぴたりと止まった。
彼女は、俯いたまま、動けないでいる。
俺は、何も言わずに、彼女の隣に立った。
そして、そっと、彼女の冷たく、固くこわばった手を、俺の手で包み込んだ。
「え……?」
ピムが、驚いたように顔を上げる。その瞳は、不安に揺れていた。
俺は、彼女の目を真っ直- ぐに見つめ返した。俺の心は、不思議なほど穏やかだった。
そして、できるだけ、安心させるように、その手を、強く、そして温かく、握りしめた。
「大丈夫だ」
たった、一言。
だが、その言葉には、俺の全ての想いがこもっていた。
お前は、一人じゃない。お前が、どれだけ努力してきたか、俺は知っている。だから、何も心配することはない、と。
俺の手の温もりが、彼女に伝わったのだろうか。
ピムの強張っていた指の力が、少しだけ、緩んだ。
彼女の真っ青だった顔に、ほんのりと、朱が差す。
彼女は、涙をこらえるように、一度だけ強く唇を結ぶと、俺に向かって、小さく、しかし確か- に、頷いてみせた。
俺は、ゆっくりと、その手を離した。
もう、大丈夫だ。
「行こうか」
俺が言うと、
「……うん」
と、彼女は、今度は、しっかりとした声で答えた。
俺たちは、もう、振り返らなかった。
家族の視線を背中に受けながら、ただ前だけを見て、並んで歩いていく。
数千人のライバルたちが待つ、巨大な試験会場の入り口。
それは、俺たちの未来を決める、運命の扉だった。
俺たちは、その扉の向こう側へと、迷うことなく、足を踏み入れた。
長い、長い戦いの火蓋が、今、切って落とされた。
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バンコク夜明け前〜サパーンプットの向こう側で、禁断の絆を〜 @NASUBIN157
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