第36話 父と子
「あなたが生まれた日は本当に良い天気で、ただ一つ、蒼天だけが世界を支配していたのよ。だからあなたの名前は一蒼と言うの。なんて、今の一蒼にはまだ難しいよね」
幼い頃に、母親から伝えられた自分の名前の由来を、一蒼は今でもよく覚えている。当時はまだ小学校に入学する前だったから、蒼天という言葉の意味はよく分かっていなかったけれど、成長するにつれて、自分でも素敵な名前だなと思えるようになった。だけど、そのことを一番伝えたかった母親は、小学二年生の頃に病気で亡くなってしまった。
一蒼が悲劇に見舞われた八月三十一日も、蒼天が世界を支配していた。頭部に衝撃を受け、意識と共に、体が下に落ちていく感覚を覚えた瞬間、死の恐怖よりも先に体を震わせたのは、自分はもう二度と、蒼天を目にすることは出来ないのかもしれないという不安だった。蒼天から闇へと落ちていく。一蒼の名を持つ者にとってそれは、耐え難い終わり方であった。
その後も、しばらく意識があったような気がしたが、いつ頃からか眠気が強くなって、ふと瞼を閉じた。そうして、目を開けた瞬間には――。
「ここは……」
意識を取り戻した一蒼の視界に真っ先に飛び込んできたのは、見覚えのない真っ白な天井だった。視界がぼんやりとはしていたが、それが暗い穴の中や、見慣れた学校のベージュ色の天井でないことだけは分かった。
「良かった。目を覚まされたんですね」
女性の看護師が、安堵した様子で一蒼の顔を覗き込んできた。体が重くてまだ自由に周囲を見ることは出来なかったが、ここが病院のベッドの上だと認識するのに、それほど時間はかからなかった。
「今、先生を呼んできますね」
まだ上手く声が出せなかったので、一蒼は微笑みを作って返事とした。
――ああ、僕は生きているんだ。この世界に存在しているんだ。
両手に力を込めると、しっかりとベッドのシーツを握っている感覚があった。体の重さや節々に残る痛みも、普段なら遠慮願いたいが、今この瞬間は生きていることの証明そのものだった。そして何よりも、看護師が曲木一蒼の存在を認識し、声をかけてくれた。今の一蒼はもう、存在が希薄な幽霊ではない。生身の肉体に魂を宿した生者、曲木一蒼以外の何者でもないのだ。
熱いものがこみ上げてきて、目を通して流れ落ちたような気がした。
※※※
「目が覚めて本当に良かった……連絡が来た時は本当にゾッとした。母さんだけではなく、一蒼までいなくなったらと思うと」
「……心配かけてごめん」
「一蒼が謝る必要なんてない。こうして生きていてくれたんだ。今はとにかくゆっくり、体を休めなさい」
一蒼の意識が戻り、最初に病室に駆けつけたのは、父親の
意識が戻ったことで、一蒼は堅司と共に医師からの説明を受けたが、様々な幸運が重なったことで、一蒼は生還することが出来たのだと実感した。殴られた頭部の打撲と、鬼の喉に落下した際に追った傷は痛々しいが、幸いにも脳への影響は見られず、後遺症なども残らない見込みだ。
頭部を殴られて穴に落下し、発見されたのは二日後。死んでいても不思議ではない状況であり、怪我で済んだのは奇跡だった。
一つ目の幸運は、鬼の喉に積み重なっていた、たくさんの白骨死体がクッションとなり、一蒼の転落のダメージを軽減していたことだ。深さのある縦穴に、頭を殴られて無防備に落下する形だったので、もし白骨死体の上ではなく、穴の底まで転落していたら、その時点で命を落としていたかもしれない。偶然と言ってしまえればそれまでだが、もしかしたら弓形家に命を奪われた死者たちが、事件解決のために、一蒼を生かそうとしてくれたのかもしれない。
二つ目の幸運は、何らかの条件によって一蒼の体が仮死状態となり、必要最小限の生命活動だけを継続。これによって、二日間という長く過酷な時間を耐え抜いたことである。これに関して医師は、現代の医学では説明がつかず、奇跡としか形容しようがないと、驚きを隠せない様子だった。
超常現象なので医師には話さなかったが、幽霊として魂が肉体から離れていたことが関係しているのではと、一蒼は想像していた。もしかしたらあの時肉体は、魂という名の意識に割くリソースさえも切り離し、最小限の生命活動の維持に務めていたのかもしれない。
しかし、いかに仮死状態とはいえ、いずれ限界は訪れていたことは間違いない。一蒼にとって最大の幸運はやはり、幽霊となった末に芙蓉と出会い、共に事件に立ち向かったことだったのだろう。その結果、自分が襲われた場所を教えることが出来た死、それが早期発見にも繋がった。芙蓉は大切な仲間であり、同級生であり、命の恩人だ。
「折口さんに会いたいな」
自然とそんな言葉が漏れていた。
「折口さんや刑事さんにも連絡してあるから、すぐに会えると思う。一蒼さえ大丈夫なら、短時間の面会は問題ないそうだし」
「折口さんを知ってるの?」
「一蒼が眠ってる間にご挨拶したよ。だいたいの事情は聞いてる」
父親から芙蓉の名前が出たことには少し驚いたが、自分が眠っている間も時は流れていたのだからそれも当然だ。ちょっとした浦島太郎気分に、一蒼は苦笑した。
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