3-8 寸胴カレー

 亜弥羽はパンと膝を叩いた。

「オッケー、ちょっと今日は夜から打ち合わせがあるからまた明日、この『母校』の取材ってことでウチが職員室を調べる。……それでいいんだね」

ユキが頷いた。

「お願い、亜弥羽ちゃん」

「任せといて」

亜弥羽はグッと親指を立てた。ユキが、ふぅと息をつき、伸びをする。

「うわっめちゃくちゃ外暗いじゃないか……ひとまず皆、今日はもう帰ろう。おつかれさま」

それぞれ頷き、立ち上がる中。


 京平が、「あっ」と声をあげ、言った。

「あ、そうだ。なぁ今日さ、みんな晩御飯どうする?」

「え?」

カボチャ金平糖を口に放り込みつつ、蓮は首をかしげる。

「普通に、家で食べるつもりだけど」

「あーあのさ、もしよかったらうちでカレー食べない?」

「え、なんで?」

「いやー1番目の兄ちゃんが今週こっちに帰ってくる予定だったんだ。それでさ、3番目の兄ちゃんがもう……すっごい量のカレー作ったんだよね」

「うん」

「でも、急な仕事で1番目の兄ちゃんが帰ってこなくって……うち、もうさ。すごい量のカレー作っちゃったから」

京平の顔がしょぼんと沈んでいく。

「3番目の兄ちゃんのカレー、めちゃくちゃ美味しいんだけどさ。でも、なんかほら……」

京平はふぅと息をついた。

「カレー、ここから一週間続くかぁって思うと」

「オッケー、任せな」

蓮は、自身の筋肉の薄い胸板をぱふんと叩いた。

「食うぞ、カレー! すぐ家に電話するわ。あ。葵先輩はどうですか?」

葵の方を振り返る。葵はゆるゆると首を振った。

「あーボクも行きたいけど、ごめん今日はバイトだから」

「そっか。窪は?」

初穂はじっと京平を見た。かちゃり、と黒ぶち眼鏡を押し上げる。

「何肉?」

「え? あ、カレーの肉? そりゃもう、ごろごろの牛肉だぞー」

京平がふにゃふにゃと笑う。初穂はコクリと深く頷いた。

「行く」

「判断そこなんだ」


***


 学校から歩いて十五分。蓮の家の前を通り過ぎ、さらにそこから五分ほど、住宅街を歩いた先。

 二階建ての青い屋根の家が、狩馬家だ。

 京平は玄関ドアを開けた。靴を脱ぎ、廊下を左に曲がってリビングに進む。

「ただいまぁ」

「おう、おかえり」

狩馬家の三男――京平の「3番目のにーちゃん」である、狩馬かるま 藤樹とうきがテレビを見ていた。京平の後ろに居る蓮と初穂を見て、「おっ」と声をあげる。

「連れてきてくれたか、カレー消費要員。悪かったなぁ、突然」

「あ、いえいえ」


***


 「さ、どーぞ」

「うわーうまそー!」


 京平が「ごろごろの牛肉カレー」と言ったのは誇大広告ではなく。

 それはそれは一口一口が大きい牛肉、それに沢山の野菜が入った、中辛のカレーであった。文字通り、「山」盛りである。

 ちらりとカーテン越しにキッチンを見ると、とんでもなく大きな寸胴鍋が見えた。

「でっけー鍋で作ると美味いからなー、カレー」

「すっごいな相変わらず……あ、いただきまーす」

「いただきます」

蓮の隣で、初穂が手を合わせる。

 蓮が京平の家に来る事自体は珍しい事ではなかったが、この空間に初穂が居る事はなんだかとても珍しいような気がした。

 蓮はカレーを食べながら、ふと思いついた疑問を問うた。

「そういえばさ、窪は兄弟居るの? 聞いたことなかったよな」

「……」

初穂はスプーンを持っていない左手の指を二本立てた。

「妹、二人」

「へぇー」

「双子」

「わ、そうなんだ。え、ってか窪ってなんか、上に兄弟居る感じだと思ってた」

「……」

初穂はふるふると首を振った。

 そうか、三人姉妹の長女だったのか。初穂と1年間同じ部活動を共にしてきて、実はあまり彼女の事を知らなかったな、と蓮は改めて思った。

 と、同時に。初穂がカレーを食べながらも、どこか思いつめた顔をしていることに気が付いた。

「窪、どうかした?」

「……」

初穂は、「何故気づく」と蚊の鳴くような声で呟くと、ふぅとため息をつき、言った。

「もしもこの街が水没して、今までの生活ができなくなるとしたら。あるいは、死んでしまうとしたら、と考えていた」

「え?」

蓮は、そんな言葉が初穂の口から出てきたことが意外だった。

 初穂と言えば、写真部の中で最も現実的とさえいえる性格だ。そんな初穂が、弱音に似た言葉を言うなんて。

 蓮の動揺を感じたのか、初穂は眉を寄せ、言った。

「別に、弱音じゃない」

「あ、そうなの?」

「悔いの話」

「悔い……?」

悔いという言葉もなんだか、初穂から出てきたのが意外に思える。初穂の悔い、とは一体なんだろう。蓮は軽い気持ちで問うた。

「窪の残したくない悔いって?」


 「……想いを伝えたい人がいる」


 からん。

 思わず、スプーンが蓮の手から落ちる。京平もまた、動揺したのか福神漬けを膝に零した。

「お、想い? え、えっ、えぇええっ!?」

脳内に一瞬でロマンチックなシーンを展開してしまい、蓮は思わず赤面する。そんな蓮を「うるさい犬」を見るような目で見て、初穂はぱちんぱちんと水色のヘアピンを止め直した。

「勘違いしないでほしいのは、恋愛感情ではないということ」

「えっ、あ、違うの?」

「憧れ」

「憧れ、あ、あぁ、なるほど。尊敬かぁ」

「これまでずっと打ち明けなかったが、ずっと憧れ、尊敬していた……という事を、7日目を迎える前には伝えたい」

「う、うんなるほどなぁ。それって誰に?」

初穂はそこでピタリと動きを止めた。

 さきほど止め直したヘアピンをもう一度外し、さらさらのストレートヘアーを手櫛で整え、もう一度ヘアピンを止める。その指先は僅かに震えていた。

 やがて、まるで冬の河にでも飛び込むかのような緊張した面持ちで、初穂は言った。


 「……ユキ先輩」


 蓮はぱちぱちと瞬きをした。

「……えーっと」

狩馬家の窓の外で、雨に濡れながらカラスが飛んでいく。


 ユキと同じスマホカバーを使い、ユキが「最近これ買ったんだ。便利なんよね」と言っていたヘアピンをつけ、ユキ先輩から褒められた時だけ顔を赤らめがちな初穂を見ながら、蓮は思った。


――き、気づいてないって思われてたんだ……!


 「なに?」

「あ、ううん、なんでもない」


 初穂は小さな口にゴロゴロ牛肉を詰め込み、噛み、ごくりと飲み込むと、言った。

「でも、それは……いよいよ最後の最後だという時に言おうと思う。……まさかユキ先輩は、私が先輩に憧れているということを知らないだろうから」


 。とは、同じ部活友達のよしみで言わない蓮だった。


 だが、もしも初穂の言う通り、今のままの日常生活ではいられなくなるとして。

 自分の中にはどんな悔いがあるだろうか。

 蓮はふとそんなことを考えてしまった。


 「……悔い、か」

京平が深い声でそう呟くのを聞いて、蓮は首をかしげる。

「京平もなんかあるの? 悔い」

「あ、いや」

京平はカレーをつつきながら、へなへなと笑った。

「県大会かなぁ、俺はやっぱ」

そして、ぐびぐびと麦茶を飲むと。京平は、「それよりもさ」と、前置きして笑った。

「今日、部活でヤバい事あってさ」

「え、なになに?」

そこから話は、京平の部活で起きた面白事件の話へと替わっていった。


 そんな京平のにこにこと明るい笑顔を、初穂はじっと横目で観察していた。


<続>

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