第15話:民の選択、静かなる支配
法正の登用は、公孫瓚の陣営に新たな活気をもたらした。蔡文姫の説得が功を奏し、気性の荒いと評判の法正も、公孫瓚のビジョンと、その裏にある真摯な民への思いに触れ、深く感銘を受けていた。彼は早速、益州に関する詳細な情報を提供し、今後の戦略に大きな貢献を見せた。
中原における曹操の勢力拡大は止まらない。彼は袁紹が失った旧領を次々と吸収し、その支配地域は日増しに広がっていた。しかし、公孫瓚は焦らなかった。彼の胸には、郭嘉と荀彧の智謀、趙雲の武、そして法正という新たな布石への確信があった。
ある日の評定の場。法正が、中原の地図を前に口を開いた。
「殿、曹操殿は武力による秩序の回復を急ぐあまり、各地の有力者や民に、半ば強引な統治を敷いていると聞きます。彼の治世は確かに乱暴狼藉を許しませんが、その厳しさゆえに、民の間には不満も蓄積されている模様です」
法正は、細かく調査した情報を報告した。彼の言葉は、現地の生々しい状況を伝えていた。
「それが、彼の『秩序の刃』か。民から血を絞り出すようなやり方では、長続きはすまい」
俺は静かに言った。曹操は合理的だが、感情を置き去りにしがちだ。
「ええ。そこに、我らが付け入る隙がございます」
郭嘉が、面白そうに目を細めた。
「曹操が制圧した中原の郡県に対し、我らが『善政』を広める。直接兵を進めるのではなく、まずはその噂と、我らの施策を伝えるのです」
荀彧が、冷静に言った。
その日より、公孫瓚は新たな「情報戦」と「民心掌握戦」を開始した。蔡文姫が考案した簡易な書簡や絵図が、秘密裏に曹操の支配地域へと流された。そこには、公孫瓚の治める土地で、民がいかに安心して暮らしているか、いかに税が軽く、食料が豊富であるか、そして疫病が少ないかなどが、分かりやすく描かれていた。
また、公孫瓚の兵士たちは、厳しく規律を保ち、略奪を一切行わないことで、周辺地域の民に驚きと感銘を与えた。彼らは袁紹軍や董卓軍の兵士たちとは全く異なり、困っている民がいれば手を差し伸べた。
「あの白馬の軍は、攻め込んできても略奪しないどころか、水を分け与えてくれたぞ……」
「公孫様は、まさしく慈悲深いお方だと聞く。我らも、あの公孫様の治める地へ行きたいものだ」
曹操の支配地域でも、そんな民の囁きが広がり始めた。彼らは、重税と厳しい法の下で生きることに疲弊しており、公孫瓚の治世は、まさに夢物語のように響いた。
ある時、曹操が制圧したばかりの、とある村を公孫瓚軍の斥候隊が訪れた。村人たちは最初は怯えていたが、兵士たちの規律正しい態度と、温かい言葉に触れ、すぐに心を許した。
「本当に、公孫様は民を苦しめぬと?」
村の老人が、恐る恐る尋ねた。
「ああ。殿は、民が心から笑える世を望んでおられる。税は軽く、食料は満ち足り、病に怯えることもない。それが、殿の『善政』だ」
白馬義従の兵士が、そう答えると、老人の目には涙が浮かんだ。
その村では、曹操軍が徴発を終えたばかりで、食料が底をつきかけていた。公孫瓚軍の兵士たちは、自らの食料を分け与え、井戸を修復する手伝いをした。それは、小さな行いだったが、民の心には深く刻まれた。
この「静かなる支配」は、曹操の予想をはるかに超える影響を与えた。曹操が武力で制圧した地域でも、民衆は公孫瓚の善政に憧れ、彼に味方する者が増えていった。曹操の統治は、見た目は堅固だが、その内側から腐敗し始めていたのだ。
「孟徳、各地で民の反発が報告されております。公孫瓚の怪文書と、彼の軍の規律が、民の心を揺さぶっている模様です!」
曹操の幕僚が、焦ったように報告した。
「公孫瓚め!小癪な真似を!」
曹操は、怒り狂った。彼は、民の心を掌握する「無形の力」の恐ろしさを、理解していなかった。彼の信じる「秩序」は、あくまで力と法によるものだ。民の感情や、彼らの心からの支持など、彼の辞書にはない。
「殿、中原各地で、曹操軍の支配から逃れ、殿の元へ移住したいと願う民が後を絶ちません。彼らは、殿の治世こそが真の安寧の地だと信じております」
蔡文姫が、満面の笑みで報告した。彼女の「言葉の力」と、民への深い理解が、見事に結実したのだ。
法正は、静かにその報告を聞いていた。彼の目には、公孫瓚への深い敬意が宿っている。
「殿の善政は、武力をも凌駕する力を持つ。この法正、まさかこのような形で、天下の趨勢が変わるとは思いませんでした」
彼の言葉に、俺は頷いた。
これは、智の勝利であり、同時に、民の選択の勝利だ。武力による制圧ではなく、民が自ら望んで公孫瓚を選ぶ。これが、俺が目指す「静かなる支配」の形だ。
夜の闇の中、俺は拠点都市の城壁に立ち、中原の方角を見つめた。そこには、曹操の支配する土地が広がっている。
白馬のたてがみが、夜風に揺れ、見えぬ戦いの行方を静かに見守っていた。
民の心が、俺の最大の武器となる。
曹操よ。お前がどれだけ強権を振るおうとも、民の心が離れれば、その覇道は脆く崩れ去るだろう。
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