第16話:天下の趨勢、三つの光と影
公孫瓚の「静かなる支配」は、中原の民の心を確実に捉えていた。武力で切り取った袁紹の旧領、そして董卓から奪還した洛陽周辺の地は、善政のもとで繁栄の兆しを見せ、各地の民が公孫瓚を慕って移住してきた。彼の治める地は、乱世にあってまるで別天地のようだった。新たな村々が生まれ、街道は整備され、商業も活気を取り戻しつつあった。公孫瓚の兵士たちが自ら畑を耕し、民の苦境に寄り添う姿は、周辺諸国の兵士には見られないものであり、その噂はさらに広まっていった。
しかし、天下の大勢は、依然として三つの巨大な影に覆われていた。
一つは、公孫瓚。北と中原の一部を抑え、天子を擁し、智謀の士と天下無双の武将を従える。その治世は「光」と称され、民の希望となっていた。彼の旗の下には、異なる才を持つ人々が集い、互いの短所を補い、長所を伸ばし合っていた。
二つ目は、中原の大部分を武力と法で制圧しつつある曹操だ。彼の統治は「秩序」という名のもとに厳しく、時に血を流すことも厭わない。その厳しさゆえに乱れた治安は回復し、盗賊は姿を消した。彼の支配は「影」の一面も持つが、彼なりの「正義」があった。
そして三つ目は、長江の豊かな地、江東を拠点に勢力を拡大しつつある孫策だ。彼は、父・孫堅の遺志を継ぎ、猛々しい武勇と統率力で、江東の群雄を次々と制圧していた。彼は若く、血気盛んで、「力」による覇道を突き進んでいた。彼の傍らには、古くからの盟友である周瑜(しゅうゆ)や、猛将の程普(ていふ)といった智と武を兼ね備えた側近たちが控えており、孫策の熱血一辺倒な性質を補っていた。
公孫瓚の執務室では、荀彧、郭嘉、蔡文姫、そして法正が、天下の趨勢を示す地図を囲んでいた。地図上には、公孫瓚の勢力圏が、白く輝く光のように広がっている。その南には、曹操の勢力圏が、黒く塗りつぶされた影のように対峙していた。そして、その東には、孫策の勢力圏が、赤々と燃える炎のように広がりつつあった。
「殿、曹操殿は、現在、徐州を攻略中かと。その勢いは、我らが予想したよりも速い」
法正が、地図の徐州を指しながら言った。
「うむ。だが、民の心は、我らが善政を求めている。その証拠に、曹操の支配地から、我らが元へ移住してくる者が後を絶たぬ」
蔡文姫が、柔らかな口調で付け加えた。彼女の集める民の声は、何よりも雄弁だった。
「曹操は、必ずやそのことに苛立ちを感じているはず。彼は、民の心が離れることを、決して許容できないだろう」
郭嘉が、不敵な笑みを浮かべた。彼の瞳は、曹操の焦燥を見透かしているようだった。
「我々が直接攻めずとも、彼の足元は揺らぎ始めています。これが、民の支持という『無形の力』の恐ろしさです」
荀彧が、静かに言った。彼の言葉には、確かな自信が宿っていた。
その頃、江東では。
「公孫伯珪が、天子を擁し、善政を敷いているだと?ふん、甘い男よ。そんなもので乱世が終わるものか」
孫策が、荒々しく言った。彼の顔には、若き覇者の自信と、武力への絶対的な信頼が浮かんでいる。
「この乱世を終わらせるのは、力だ。民の心など、力で制圧すれば、後からついてくるものよ」
彼は、そう放言し、新たな領土拡大へと兵を進めた。孫策の覇道は、一切の迷いなく、ただひたすらに前へと突き進む「力」の象徴だった。
そして、中原の曹操の陣営では。
「公孫瓚めが!我らが治めた土地から、民が逃げ出すとは!あの男の甘言に騙されていると知らぬのか!」
曹操は、怒りによって机を叩いた。彼の統治は厳格ゆえに、民の不満が爆発する兆しを見せていた。彼の領内では、夜中に荷物をまとめて逃げ出す農民の姿が後を絶たず、治安維持のために兵がさらに分散させられていた。
「孟徳、このままでは、我らの基盤が揺らぎかねません。公孫瓚の軍は、我らが兵力を分散させている隙を狙ってくるでしょう」
側近の将が、不安そうに言った。
曹操は、冷酷な目で地図上の公孫瓚の勢力圏を見つめた。
「公孫瓚の善政など、所詮は幻想。この乱世を終わらせるには、絶対的な法と秩序が必要なのだ。あの男の甘い理想は、必ずや天下を再び混乱させるだろう」
彼は、そう呟いた。曹操にとって、公孫瓚の「善政」は、むしろ天下の秩序を乱す危険な思想だった。彼は、自らの「正義」に微塵も疑いを抱いていなかった。
公孫瓚の拠点では。
「殿、孫策殿の勢力も、無視できぬほどに拡大しております。彼の武力は、呂布殿にも劣らぬほどかと。ですが、その智謀の士もまた、警戒に値します」
趙雲が、報告した。彼の目には、新たなる強敵の出現に対する、警戒の色が浮かんでいる。
「うむ。孫策は、純粋な『力』だ。だが、その力も、民の心なくしては、真の覇道とはなり得ない」
俺は言った。そして、改めて地図上の三つの勢力圏を見つめた。
公孫瓚の「光」の統治。
曹操の「秩序」という名の「影」。
孫策の「力」という名の「炎」。
それぞれの旗印の下、三つの異なる思想が、この乱世の趨勢を決定づけようとしていた。
白馬のたてがみが、天下の趨勢を告げるかのように、静かに夜風に揺れていた。
いよいよ、この乱世の真の戦いが、幕を開けようとしている。
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