第14話:布石の妙手、未来への道標
曹操の台頭は、公孫瓚に新たな焦りをもたらした。袁紹に大勝し、華北の大部分と洛陽を手中に収めたとはいえ、中原を制圧しつつある曹操の勢いは、その智略と強権によって日増しに強大になっていた。俺が理想とする「善政」と、曹操が信じる「強権による秩序」。二つの異なる「正義」が、いずれ激突するであろう運命を感じていた。
執務室には、俺と荀彧、郭嘉、そして蔡文姫がいた。趙雲は白馬義従の訓練と、新たに占領した袁紹の旧領の巡回に当たっている。
「殿、曹操は、董卓の残党を完全に掃討し、その勢力を盤石なものにしつつあります。このままでは、中原全域が彼の支配下に入るのも時間の問題かと」
荀彧が、静かに報告した。彼の言葉には、危機感が滲んでいた。
「うむ。曹操は、袁紹とは違う。彼は、民の心を掴む術を知っている。ただし、それは法と規律による秩序だ」
俺は、地図上の曹操の勢力圏を指でなぞった。彼の拡大速度は、俺の未来知識を持ってしても、予想を上回るものだった。
郭嘉が、面白がるように口元を歪めた。
「あの男は、実に厄介ですな。悪と断じきれぬ、不気味なほどの合理主義。ですが、だからこそ、隙も生まれる」
「隙、だと?」
俺は、郭嘉に視線を向けた。
「ええ。曹操は、中原の支配を急ぐあまり、南の荊州や益州への警戒を怠りがちです。特に益州は、豊かな土地でありながら、未だ大きな勢力が割拠しておらず、手薄なままだ」
郭嘉は、益州の地を指し示した。その言葉に、俺の脳裏に、未来の重要人物の顔が浮かんだ。
「益州……そこで、法正(ほうせい)か」
俺は、小さく呟いた。法正、字は孝直。史実では、後に劉備に仕え、益州攻略の立役者となる稀代の謀士。彼の才は、曹操や孫権をも出し抜くほどだ。
荀彧が、驚いたように目を見開いた。
「殿、法正と申されますと、蜀郡(しょくぐん)の出身の……あの、気性が荒く、しかし奇策に長けたという?」
「うむ。その男だ。彼を、曹操に先んじて手に入れる」
俺は、きっぱりと言った。法正は、義理を重んじる劉備とは異なり、自身の才覚を活かせる場所を求めるタイプだ。そして、益州の地を深く理解している。
「しかし、益州は遠く、道は険しい。それに、法正殿は、まだ広く名を知られているわけでは……」
蔡文姫が、懸念を表明した。
「だからこそ、今なのだ。曹操が益州に目を向ける前に、手薄な今こそ、動く」
俺は、蔡文姫の言葉を遮り、続けた。
「文姫。お前には、その法正という男に接触してもらいたい」
蔡文姫は、驚きに目を見開いた。
「私、でございますか?しかし、私は武には長けておりません。それに、法正殿は、気性が荒いと聞きます故、私のような者が果たして……」
「お前の『言葉の力』が必要なのだ。法正は、才を認められぬことを不満に思っているはずだ。お前ならば、彼の才を見抜き、この公孫瓚の『善政』と『天下統一のビジョン』を、彼の心に届かせることができる」
俺は、蔡文姫の才能を信じていた。彼女の言葉は、民の心を動かす。ならば、同じように才を持つ者にも響くはずだ。
蔡文姫は、戸惑いながらも、やがて強い決意を秘めた目で頷いた。
「は、はい。殿のお命とあらば、この身を賭して、必ずや法正殿をお連れしてご覧に入れます」
「うむ。頼んだぞ、文姫。これが、未来への大きな布石となる」
俺は、そう言って、蔡文姫の肩を軽く叩いた。彼女は、静かに執務室を辞した。
荀彧と郭嘉は、俺のその采配に、わずかに驚きを隠せないようだった。
「殿……まさか、法正殿に女性を遣わすとは……大胆な策にございますな」
荀彧が、感心したように言った。
「面白い。殿の考えることは、常に我らの常識の斜め上を行く」
郭嘉が、楽しそうに笑った。
この頃、洛陽の善政は、ますますその実を結び始めていた。蔡文姫が民の声を拾い上げ、荀彧がそれを政策に落とし込み、郭嘉がその効果を最大化する。兵士たちも、民に寄り添う公孫瓚の姿を見て、その士気は非常に高かった。白馬義従は、日々の訓練でその練度をさらに上げていた。
数週間後。蔡文姫からの書簡が届いた。そこには、法正を無事に登用できたという報せが記されていた。彼女は、法正の才を認め、公孫瓚の「真に民を救う政」への熱意を説得したのだという。
「殿!蔡文姫殿が、法正殿をお連れして、間もなく到着いたします!」
幕僚の報告に、俺は思わず立ち上がった。
「うむ!大儀であった!」
法正の加入は、公孫瓚の智謀の陣営をさらに強化する。彼の奇策の才は、今後の曹操との戦いにおいて、大きな武器となるだろう。そして、彼の益州での人脈は、将来の蜀方面への進出の足がかりとなる。
夜空には、満月が輝いていた。
白馬のたてがみが、夜風に揺れ、遠く益州の地から吹く風を告げるかのように、静かに輝いていた。
俺は、地図を再び見つめた。天下統一への道は、常に先の布石が必要だ。
曹操よ。お前が中原を制圧する頃には、既に俺は、お前の足元に楔を打ち込んでいる。
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