第五幕:その名を、祈りとともに

 春が来るたびに、国は祝福の鐘を鳴らした。


 戦火に疲れた人々は、やがて笑顔を取り戻し、街に色が戻った。


 その中心にいたのが、リリア・ノクターン。

 かつて火と鉄球を手に、「祈りを超えて生きること」を選んだ少女だった。


 リリアは聖球を手放したあと、民の声に耳を傾け続けた。

 魔族と人、人と人、国と村。

 そのあいだに立ち、語り、歩き、灯りを配った。


 “焼かない火”を囲むように。


 数十年の歳月が流れ、争いは徐々に姿を消し、祈りの形も変わった。

 誰かを救うために誰かを焼くのではなく、

 誰かの隣に座って、ただ手を握るための祈りに。


 リリアは人々から「新たな聖女」と讃えられ、

 大陸のあらゆる地でその名が語られるようになった。


 だが。


 六十歳を過ぎた頃から、リリアは夜ごと――“彼女”のことを想った。


 それは、炎の向こうで出会った少女。

 焼かれるはずだった魔王。

 そして、誰よりも自分を理解し、抱きしめてくれたひと。


 ひとりになった夜、リリアはクローゼットの奥にしまわれた赤いドレスを取り出す。


 煤の匂いが、まだほんのわずか残っていた。


 彼女が最後まで脱がなかった、真紅の衣。


「……あなたなら、いまの世界をどう思うかな」


 そっと顔を埋める。

 涙は出なかった。

 けれど、胸の奥に積もる想いは、歳月を経ても決して薄れなかった。


 風が吹いて、ランプの火が揺れる。


 その光の揺れの向こうに、リリアは“誰かの気配”を感じることがあった。


 神ではなく。

 けれど、神とも呼べる何か。


 ――女神。


 その存在に、彼女は確かに気づいていた。


 否定も拒絶もなく、ただ見守るような“目”。


 そして、七十歳を迎えたある朝。

 眠るように、リリアは静かに息を引き取った。


 国中に訃報が広まり、

 葬儀には千人を越える弔問客が訪れた。


 白い布に包まれた遺体は、中央礼拝堂の囲炉裏のそばに安置された。


 すべてが終わり、

 最後の祈りがささげられた瞬間――


 光が、満ちた。


 静かで、あたたかく、神聖で。


 けれど、それは誰の祈りにも呼応せず、ただ、彼女の魂だけに向かっていた。


 リリアの身体が、白い光に包まれた。


 花弁のようにやわらかく、

 雪のようにひそやかに、

 その輪郭は空へと昇っていく。


 人々が息を呑む中、光は天へと融けていった。


 誰かが、静かに言った。


「……女神が……迎えに来たのか……?」


 その答えを知る者は、もうこの世にはいなかった。


 けれど、確かに――


 彼女は再び、“誰かの火のそば”へ向かったのだった。

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