第三幕:日常に溶けた魔王の影

 「真央先生ー! 今日も髪、かわいいー!」


 「先生、お弁当それだけですか? もっと食べたほうがいいですよ!」


 「真央先生、今度バレー部の応援にも来てくださいね!」


 ――昼休みの中庭。

 中学二年の担任、真央先生の周りは今日もにぎやかだった。


 真央は、笑っていた。


 目尻を細めて生徒の言葉に頷き、

 少し照れたように前髪を直しながら、淡い笑みを浮かべる。


 ベージュのニットカーディガンに、白いブラウス。

 スカートは膝下までのやわらかなライン。


 控えめで、でも自然と視線を集める――そんな佇まいだった。


 「じゃあ、放課後は数学の補習、ちゃんと来てね」


 「えぇ〜……」


 「“やだ”は聞きません。ほら、さっきの“弁当の量”指摘、帳消しにするチャンスですよ?」


 「……行きます……」


 和やかな笑いが広がる。

 まるで火のぬくもりのように、やさしい時間だった。


 ***


 授業が終わると、生徒たちは「ありがとうございました!」と元気に教室を飛び出していく。


 教壇に立った真央は、黒板を見つめながら一息ついた。


 誰もいない教室。

 外の空は、すこしだけ橙に染まりはじめている。


 その光の中に立っていると、不意に――


 **「あの夕方の色に、似てるな」**と、思った。


 焚刑場跡。火の宣言の日。

 囲炉裏の火を灯したあの日の、空の色。


 焼かれるはずだった命が、照らす火に変わった――あの夕暮れ。


 記憶の断片が、ふと蘇る。


 “リリア”のことを、思い出していた。


 強くて、まっすぐで、小さくて。

 笑いながら泣いて、泣きながら抱きしめてくれた、あの子のこと。


 「……だめだな、私」


 小さく苦笑して、真央は目を伏せる。


 誰にも気づかれずに、ひとつだけ深く息をついた。


 ***


 夜。

 帰宅して、シャワーを浴び、温かい紅茶を淹れる。


 部屋着に着替えて、照明を落としたリビング。

 窓辺に腰掛け、真央は静かに街の光を見つめていた。


 カップを手に、ふうっと吐いた息が白くはならないことに、少しほっとする。


 火のない夜。

 誰も焼かないこの場所。


 「……それでも、心は……焼け残るんだね」


 ぽつりと落としたその言葉は、カップの中でゆれる紅茶に吸い込まれた。


 誰かに話すわけでもなく、祈るわけでもない。


 ただ、“魔王だったころの自分”と、

 “リリアといた日々”が、どこかに今も在る気がして――


 それだけが、ほんの少し、胸を痛くした。


 ――だけど、真央はもう“魔王”ではない。


 剣も、加護も、祈りも持たずに生きる今。


 生徒たちの名前を呼び、笑い合い、叱って、褒めて。

 そんな毎日が、彼女の“生き直す”ための灯りだった。


 それで、十分なはずだった。


 ――はずだったのに。


 次の日。


 教務室で学年主任に呼ばれた真央は、

 応接室へと向かう。


「来週から、転入生が君のクラスに入るんだ。

 紹介は来週の朝礼でいいが、顔合わせだけ済ませておこうかと思ってね」


 主任の穏やかな声に頷きながら、真央はドアの向こうをちらりと見た。


 椅子に座っているのは、小柄な女子生徒。


 制服の袖が少し長く、姿勢は落ち着いていて、

 でも――その表情に、どこか既視感があった。


 「……あ」


 その一瞬。

 真央の中で、何かがざわめいた。


 記憶ではなく、予感でもない。


 ただ――あの光に、似ていた。


 まだ、名前も聞いていない。


 けれど。


 次の瞬間、少女は立ち上がり――


 「……やっと……やっと見つけた……!」


 言葉と同時に、制服のまま、

 少女は真央へと飛びつき、強く抱きしめた。


 息が止まる。


 時が、静かに止まる。


 このぬくもりを知っている。


 この声を、知っている。


 魔力も星見もいらない。


 ただ、心が確かに覚えていた。

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