第四幕:私はこの武器で“守る”

 月のない夜道を、リリアは歩いていた。


 背中の鉄球は、泥にまみれ、傷だらけ。

 袖は破れ、靴は片方が抜けかけていた。


 それでも、足は止まらなかった。

 あの村を出てから、一度も振り返らずにここまで来た。


 ――誰も助けてはくれなかった。

 けれど、あの子の手は確かに、リリアの手を握り返してくれた。


 それだけで、十分だった。


 そして、山の斜面を越えた先――見慣れた塔の灯りが見える。


 魔王城。

 光のない世界の中で、ひとつだけあたたかい場所。


(……帰ってきた)


 門をくぐった瞬間、誰かの足音が駆けてきた。


「リリア!」


 声とともに、銀のドレスの裾が風を切る。

 駆け寄ってきた魔王リュシアは、その姿を見た途端、目を見開いた。


「どうして、こんな……」


 リリアは、言葉を発さなかった。

 ただ、背中の鉄球をそっと外し、その場に置いた。


 その両手は、小刻みに震えていた。


 恐怖ではない。後悔でもない。

 ただ――「壊さずに守りきったこと」への、余韻だった。


 リュシアは、ためらいなく彼女を抱きしめた。


「……よく、帰ってきたわね……」


 その声は、まるで胸の奥に直接触れてくるようだった。


 リリアは、ぼそりとつぶやいた。


「私……今回は、ちゃんと、壊さずにすみました。

 誰も、傷つけなかった……。でも、すっごく……怖かった」


「ええ。きっと、何より勇気のいることだったと思うわ」


 腕の中の少女が、小さく身を震わせた。


 けれど、その震えは、魔王の手のひらによって、ゆっくりとおさまっていった。


「泥だらけじゃない。体、冷えてるわ。……お風呂、入る?」


「い、今この格好で言うの、ずるいです……」


「じゃあ、手伝ってあげる。着替えも洗うのも」


「それはそれで、もっとずるい……」


 そんなやりとりのあと、ふたりは湯の間へ向かった。


 ***


 温かな湯気が、石造りの浴場を満たしていた。


 脱衣所で服を脱ぐと、リリアの体には無数のあざと擦り傷。

 鉄球の鎖が何度も巻き付いた跡が、薄赤く残っていた。


「湯、熱すぎない?」


「……ちょうどいいです」


 浴槽に沈みこむと、リリアの全身から力が抜けていった。


 隣に座ったリュシアが、湯船からそっと身を乗り出してリリアの背に手を伸ばす。


「洗ってあげる」


「えっ、自分でできますって……!」


「でも、“よく帰ってきた子”には、こういうご褒美があってもいいと思わない?」


「そ、それ、子ども扱いのご褒美では……」


「“鉄球で守る”ことを選んだ立派な子に、よ」


 泡を立てた手が、優しくリリアの背を撫でる。


 リリアは、言葉もなく、うつむいたままその手に身を預けた。


 しばらくして、ようやくぽつりと声を出す。


「……でかいなあ」


「え?」


「リュシアって、こうして並ぶと……なんか、全部、でかいんだなって……」


 リュシアはふっと笑った。


「ふふ。あなたが小さいのよ。……でも、それが可愛いってことでもあるの」


「うう……ご褒美にしては、ちょっと恥ずかしすぎるんですけど……」


「そう? じゃあもっと褒めてあげようか?」


「やめてええええっ!」


 湯気の中で響く笑い声。


 そのぬくもりの中に、リリアは身を沈めていく。


 傷が、ゆっくりと癒えていく音がする。


 そして――湯上がりに髪を拭かれながら、リリアはぽつりとつぶやいた。


「この鉄球で、罪を砕くんじゃない。

 誰かの祈りを、守るために使いたいです。……私、今はそう思ってます」


 リュシアは何も言わなかった。

 ただ、そっと頷いて、彼女の髪にもう一度タオルをかぶせた。


「……いい子ね」


「……褒美、増えたなぁ……」


 そしてリリアは、湯上がりのまどろみの中――


 初めて、“自分のままでいること”に、少しだけ誇りを感じていた。


 ――第6章:完。

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