第二幕:黒の森に捨てられた名
クッキーづくりは、なぜか大惨事だった。
「うわっ、焦げた!? え、なにこの煙っ!」
「ふふ、粉の入れすぎね。混ぜ方がちょっと雑だったから……」
「うぅ……焼きたてどころか、焼けすぎた……」
エプロン姿の魔王は、口元を手で押さえながら笑っていた。
対するリリアは、袖をまくって顔まで粉だらけ。
小さな鼻の頭にまで白い点がついていて、なんだかとても惨敗感がある。
「……ちょっと、向こう座ってて。今度は、私がちゃんと作りますから」
「ふふ。じゃあ、助手は任せたわよ」
「助手って……え、助手って、そっちじゃないの!?」
そんなやり取りをしながら、香ばしいバターの匂いが台所に広がっていく。
ふとした瞬間に、リリアは不思議な気持ちになる。
(なんだろう、この感じ……)
(ここ、魔王城なのに……お母さんと一緒に、料理してるみたい……)
(……いやいやいや、お母さんじゃないし!)
バターが焼ける音。甘い香り。
そんな中、魔王がぽつりと呟いた。
「私ね、昔は……森の民の家族と一緒に暮らしていたの」
リリアは、焼き加減を確認する手を止めた。
「森の民……って?」
「いわゆる“魔族”の始祖よ。異能を持った人間たちが、迫害を逃れて隠れたのが“黒の森”だった。
でもそこでは、ただ怯えて暮らしていたんじゃない。畑を耕し、歌をうたい、火を灯して、子どもたちを育てていたのよ」
魔王の手元にあるオーブン皿に、小さなクッキーの種が並ぶ。
一つ一つ、模様が違う。
花の形、月の形、鉄球の形、ちょっと崩れたハートの形。
「……“魔族”って、もっと……こう、棘があって、牙をむいてて……っていうイメージだった」
「そう思わせるように、歴史は書かれてきたの。
でも実際は、どの種族も“生きようとしていた”だけ」
「生きようとしていた……」
「そう。人間も魔族も、きっと同じだった。
ただ、力の使い方を間違えたのは、両方ね」
オーブンの中で、生地がぷくりと膨らんでいく。
リリアは、焼き上がりをじっと見つめながら呟く。
「じゃあ……魔王様は、その森で生まれたんですか?」
「ええ。私は、“異能を持った子ども”として生まれた。
目に触れるものの感情を読み取る力。それが、私の異能だった」
リリアは、びくっと肩を跳ねさせた。
「え、それって……今も……?」
「うふふ。安心して。いまは使ってないわ。覗き見する趣味はないの」
「……ほっ。そ、そういうの……事前に言ってくださいよ……」
魔王は紅茶を淹れ直しながら、窓の外を見た。
「だけど、ある日――その森が、焼かれたの」
リリアの手が止まる。
「焼かれた……?」
「人間の神聖軍が、“魔王討伐”の名のもとにやってきた。
でもそこにいたのは、戦士ではなく、家族だった。子どもだった」
リリアは、息を詰める。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……娘、さんも……?」
魔王は、答えなかった。
けれど、その目に浮かんだ微かな影が、なによりも雄弁だった。
「……ごめんなさい。変なこと、聞いて……」
「いいのよ」
魔王は微笑む。
その笑顔は、どこか母親のようで、でも、哀しみのにじんだ夜の湖のようにも見えた。
「ねえ、リリア。あなたの国の聖典には、“神は魔を退け、人間に平和を与えた”と書いてあるわね?」
「……はい」
「でもね、私から見れば……“人間が魔を生み出した”ようにも思えるの」
その言葉は、雷のように響いた。
(人間が……魔を、生み出した……)
リリアの頭の中にあった正義が、音を立てて崩れていく。
「守るべきもの」が、どんどん形を変えていく。
そして、自分が「聖女」として振るった鉄球の重さが、今さらながらに手にずしりとのしかかってきた。
「……私……この世界のこと、なにも知らないんですね……」
「知ろうとしてる。いま、こうして」
魔王は、そっとリリアの手を握った。
それは、大きくてあたたかくて、けれど決して縛らない手。
ただ、そばにあるだけで、泣きそうになるような――そんな手だった。
「私は、あなたにすべてを教えるわ。
魔族のことも、人間のことも。
そのうえで、あなたが“何を信じるか”を、自分で決めていいの」
リリアは、小さく頷いた。
どこかに逃げ出したくなる自分がいた。
けれど、同時に、「それでも知りたい」と思う自分も確かにいた。
だから、言葉にした。
「……はい。ちゃんと、知りたいです。……全部」
そして――
「それが……もし、今までの私を否定することになっても」
魔王は何も言わず、リリアの頭を撫でた。
その手は、かつて娘に向けていたものだったのかもしれない。
けれど今、それは確かに、リリアだけに注がれていた。
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