第三幕:名前のない祈り
夜の空気は、しっとりと重たかった。
魔王城の庭園は、月の光に照らされてぼんやりと青白く浮かんでいる。
花はすべて、日中には咲かず、夜になると香りを放つ――“月草”と呼ばれる品種ばかりだった。
リリアは、そのひとつに手を伸ばす。
「……これ、食べられるんですか?」
「食べる気なの?」
「だって……夜に咲く花って、ちょっと不吉っていうか……毒ありそうっていうか……」
「ふふ、毒はないけど、少し苦いかもね。
それに、“夜に咲くから不吉”って、誰が決めたの?」
その一言が、心に刺さった。
“誰が決めたのか”。
たったそれだけの問いが、こんなにも鋭く響くとは思っていなかった。
「……教会で、“夜は魔の時間”って習ってきたから……」
「夜がなければ、月は見えないのに?」
「……う」
言い返せない。
リリアは、そっと月草の花びらを指先でなぞる。
「……魔族の人たちって、普段、どんな生活をしてたんですか?
戦い以外の……そういうの、知りたくて」
魔王は一瞬驚いたようにリリアを見てから、柔らかく微笑んだ。
「そうね。……畑を耕したり、狩りに出たり、家を建てたり。
それから、お祭りが好きだったわ。季節の変わり目になると、焚き火を囲んで踊って、歌って……」
「歌、うたうんですか?」
「ええ。たくさん。……特に、亡くなった人のために」
魔王の瞳が、すこしだけ遠くを見るようになる。
「“死者を祈って火を灯す”のは、魔族にとって大切な文化なの。
誰かが死ぬと、その人の好きだった食べ物と歌を用意して、その人を思い出す。
“忘れない”っていう祈りが、魔族の信仰なのよ」
「……信仰、って……神様とか、信じてないんですか?」
「“人間の神”には裏切られたから。
でも、私たちは“人の想い”を信じていた」
リリアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……私は、ずっと、“異端者を排除せよ”って、そう祈ってきました」
魔王が顔を向ける。
リリアは、小さくうつむいたまま、声を続ける。
「……魔族の人たちが、そうやって誰かの死を悼んでるなんて、知らなかった。
私は、“悪”だって思って、憎んでいいって……思ってて……」
膝の上で、拳をぎゅっと握る。
「……ほんとは、祈ってた相手が……家族だったり、子どもだったり、
……普通に笑って暮らしてた人だったなんて……考えたこと、なかった……」
魔王は、すぐには言葉を返さなかった。
その代わり、リリアのとなりに腰を下ろし、手を伸ばして――
彼女の肩に、そっとひざ掛けをかけてくれる。
「リリア。あなたがそれを“想像できるようになった”ことが、
なによりも大切なのよ」
リリアは、こくりと頷く。
「……でも、知れば知るほど、わかんなくなります。
善と悪って、なんなんだろうって」
「わからなくて、いいのよ。
正解なんて、たぶんどこにもないんだから」
魔王は、庭の小道に咲く“ひかりの花”に目をやる。
淡い青色のそれは、リリアの好きな色にどこか似ていた。
「昔、娘がね。『神様っているの?』って聞いたの。
私は答えられなかった。だから、こう言ったの」
――“誰かを信じられる気持ちがあるなら、それが神様かもしれないわね”――
そう言って、魔王は微笑む。
リリアは、その言葉を胸に刻むように、そっと目を閉じた。
(神様は、いるのかもしれない。
でもそれは、誰かの教えの中じゃなくて――)
(……自分の中に、あるのかもしれない)
風が吹いた。
夜空には、星が瞬いていた。
「……今日も、勉強したから。……ご褒美、あります?」
「もちろんあるわ。ふふ、甘やかし係の仕事ですもの」
「……はあ。あの……あんまり変なことは、やめてくださいね……?」
「“変なこと”って、どんなことかしら?」
「い、言わせないでくださいよ!!」
魔王の笑い声が、夜に溶けていく。
その横でリリアは、ぷいっとそっぽを向いたふりをしながら――
そっと、自分の鉄球を抱きしめていた。
重さは、まだ変わらない。
けれどその“意味”が、ほんの少しだけ、変わり始めていた。
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