第2章 絹の寝台と血の歴史

第一幕:その正義は、誰のもの?

「ねえ、リリア」


 魔王リュシアは、夜の灯に照らされながら、ゆったりと紅茶を飲んでいた。

 対面のソファに座るリリアは、まだ手の中のカップを持ち慣れていない様子で、こくこくと音を立てて飲んでいる。


「あなたは、なぜ――ここに来たの?」


 唐突に放たれた問いだった。


 けれどその声には責める色はなく、むしろ絹のようにやわらかかった。


「……え?」


 リリアは、一瞬、意味が分からなかった。


 鉄球を抱えて飛び出した日。あの日のことは、頭にこびりついているはずなのに。

 あまりに素直なその問いに、言葉がつかえた。


「それは……その……」


 言いかけて、止まる。


 考えてみれば、ちゃんとした言葉にして答えたことなんてなかった。


「――人間の、平和を守るため……です」


 精一杯の声だった。


 その答えに、魔王はゆっくりと首を傾けた。


「“人間の平和”ね。……それは、誰の?」


「え……?」


「“人間全体の平和”? “あなたの国だけの平和”? それとも――」


 魔王は静かに、問いを重ねる。


「あなたの“教会”にとっての、平和かしら?」


 リリアは、口を開いたまま、何も言えなくなった。


 言われてみれば、あまりにも漠然としていた。


 人間の平和、と言いながら、世界のどこにどんな人たちが暮らしているか、自分は何ひとつ知らない。


 ただ、神官に言われるがままに祈り、

 “聖女”と呼ばれ、“鉄球を振るう者”として生きてきただけ。


「……正義って、難しいんですね……」


「うん。とても」


 魔王は頷きながら、手元の本を開いた。


 古びた革装丁。見たことのない言語。けれど、魔力によって文字はリリアにも読める。


「今日は……少しだけ、“昔話”をしましょう」


「昔話……?」


 魔王は、リリアの視線に合わせてページをめくる。


 そこには、手書きのような挿絵と共に、淡く古い文字が並んでいた。


 その絵には、少女と少年、そして、焔に包まれる町。


「今から五百年ほど前。

 この大陸には“魔族”という種族はいなかったの」


「……え?」


「彼らは、“魔族”と呼ばれてはいなかったの。

 “人間”として生まれ、“人間”として暮らしていた」


 リリアの眉がぴくりと動く。


「じゃあ、“魔族”って――」


「そう。異能を持って生まれた、ただの人間たちだった。

 炎を操る子、風と話す子、影に溶ける子。

 そんな子たちは、“異端”として排除されたの」


「……排除……って、まさか……」


「“処刑”よ。

 焼かれたり、縛られたり、追放されたり。

 多くは、名前すら残されずに消えたわ」


 ぞわ、と背筋に寒気が走る。


 信じたくない話だった。

 でも、魔王は冗談を言うような顔ではなかった。


 その語り口は、あまりにも静かで、事実を並べるだけのように淡々としていて――


 だからこそ、恐ろしかった。


「やがて、異能を持つ者たちは、森へ、山へ、地下へと姿を消した。

 そして、彼らは“魔族”と呼ばれるようになったの」


「……なんで、“魔”なんてつけたんですか……?」


「それは――“人間がそう呼んだから”よ」


 リリアは、ことばを失った。


「でも、彼らだって人を殺したでしょう……?」


「ええ。殺したわ。家族を焼かれた者が復讐した。

 自分を“悪魔”と呼ぶ者に牙を剥いた」


 魔王の瞳が、赤く淡く光った。


 それはまるで、深く沈んだ怒りのようでもあり、

 遠い昔の、どうしようもない哀しみのようでもあった。


「だからね、リリア。

 人間は魔族を殺し、魔族も人間を殺した。

 正義の名のもとに、悲劇は両側で起きたのよ」


 リリアは、自分の胸元を見下ろした。

 聖職者の証として与えられた十字の刻印が、そこにはあった。


 でも、それがなにを守ってきたのか、わからなくなっていく。


「……でも、教会は……そんなこと……」


「語らないわ。“都合の悪いこと”だから」


 ぴたりと息が止まった。


 知らなかった。聞いたこともなかった。


 でも、それは、“なかった”のではなく――

 “隠されていた”のかもしれない。


「……ねえ、リリア」


 魔王が、ひざ掛けをふわりとかけてくれた。

 それはまるで羽のように軽くて、ほんのり魔王の香りがして――


 リリアは、くしゃくしゃになりそうな顔を、ぐっと隠すようにうつむいた。


「あなたは、まだ小さい。身体も、心も。

 でも、あなたの目は、ちゃんと真っ直ぐ前を見てる。私はそれを、とても誇らしく思うのよ」


 その言葉に、リリアの目に、涙が浮かぶ。


 ずるい。そんな言い方、ずるい。


「……知らなかったこと、知っただけで……ご褒美って、おかしくないですか……」


「そう? 私は、とても偉いと思うわ」


 魔王は立ち上がると、くすりと笑った。


「じゃあ――今日のご褒美、作りましょうか。ふたりで」


「作るって……まさか……」


「お菓子よ。焼きたての、あまあまの」


 リリアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


(あまあまの……)


(……うん、まあ、それくらいなら……)


 だけど――その後。

 焼きあがったクッキーを見ながら、魔王が手にしたスプーンをこちらに向け、


「はい、“あーん”」


 と言ってきたとき。


 リリアの顔は、また真っ赤に燃え上がったのだった。

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