11.ふわふわの朝

 微かな頭痛に顔を歪めて目を覚ました。

「う……」

 思わず声が零れるが……なんだ、この頭痛は?

 月曜の朝に起き上がれないほど疲弊しているのはいつものことだが、今日は体が動く代わりにこの頭痛だ。

 そもそも……俺はいつベッドに戻ってきたんだ?

 ミサを終えてからの事を一つずつ思い出してみる。

 ――昼食、ベッドに戻って気絶、起きて夕食、ホットミルク、何か……極夜と話を……。

 そこまで思い出して、風呂に入った記憶がないことに気付いた。

 まぁ、月曜は大体そんなだから、起きてから風呂へ直行すればそれでいいとして。

「……」

 右手が、温かい。

 極夜にしっかりと手を掴まれていた。いや、正確に言えば手を繋いでいた。

 振り払うのは簡単だ。もう起きる時間だと言えばいい。

 でも、何故だろう、離し難い。

「……」

 そっと極夜の顔を確認する。

 涙の跡が残っていたが、酷く穏やかな顔だった。

 ……なら、まぁいいか。

 俺は頭痛のせいにして目を閉じた。

 どうせもう少し寝ているつもりだったし、それはそれでルーティン通りの行動と言える。

 だから、手を繋いだままなのは気付かなかった振りで二度寝に入った。


     ***


 ぼやっとした目覚め。

「……」

 開いた目に最初に映ったのは白夜の寝顔だった。

 珍しい……というより、ここへ来てからは初めてか、俺が白夜よりも先に目を覚ますのは。

 すうすうという静かな寝息は穏やかだ。

 良く寝ているのに起こすのも可哀想だな。

 そう判断したとき、手を繋いでいることに気付いた。

「あぁ……」

 ポツンと呟く。

 そういえば夢の中で手を繋いでいた――だからか。

 左手で白夜の手をしっかり握ったまま、俺はくたっとベッドのスプリングに体重を預けた。

 この部屋には時計がないから、今が何時なのかはわからない。

 だがまぁ、白夜がまだ眠っているのだから起きる時間じゃないんだろう。

 生憎と二度寝が出来るタイプではないから、このまま白夜が目を覚ますまで眺めていよう。ついでに頭の中で今日の作戦でも立てていればいい。

 脳の片隅を開放、そこで何人かの俺が作戦会議を始める。

 暇になった俺はぼうっと白夜を眺める。

 ――一週間前よりは、確実に顔色が良くなっている。

 生気とでも呼ぶべきものが白夜に戻っているのが分かった。

 うん、この分なら大丈夫そうだ。

 きちんと繋いであげよう、断絶した記憶を。

『それ、私の力を使うのか?』

 要らん、俺がやる。弟の記憶を引き戻すのに、お前の力だけは借りない。

『ふーん? まぁ、いいけど。今日、私も解放されるってことだし』

 いいから、呼ぶまで黙ってろ。

 ふっと神の声が途絶える。

 あー、鬱陶しい。

 空いた手で、白夜の髪をそっと撫でた。

 妙な実感がこみ上げる。

 戻ってきたんだな、本当に。

 堪らなくなって、ぐいっと白夜を抱き寄せた。

「んん……?」

 微かな声。

 おっと、何でもない何でもない、もう少し寝てろ。

 そんな俺の心が伝わったのかどうだか、白夜は再び寝息を立て始める。

 もう少しだけ、このままで。

 俺は腕の中にある体温を大切に大切に抱き締めていた。


     ***


 体を包む温かさに、ふっと目が開いた。

「……お、起きた」

「…………あの」

 言葉に詰まった。

 極夜に抱き締められていたからだ。

 さすがに言葉を失う。

 極夜はニタリと笑って俺の頭をふわふわと撫でると、至近距離で「おはよう」と告げてきた。

 ――先に、離してはくれないだろうか?

 視界はぼやけたままだが、この距離では目を逸らすのも不自然だし、何より少し気まずい。

「離して、くれませんか?」

「んー? まぁ、堪能したからいいか」

「は?」

 堪能したって……一体いつからこの状態だったんだ?

 極夜が繋いでいた手を離し、俺を解放する。

「大体、二時間ぐらいか? いつもよりもゆっくりだったんだな」

 ……二時間……。

 いや、自分の体内時計としては普段通りの月曜の朝だ。だとしたら……まぁ、極夜の言うことが事実なんだろう。

 思わず溢れたため息と共に、言い訳じみた言葉を口にしていた。

「――月曜の午前中は……私にとっての休日なんです」

「ん?」

「日曜から持ち越した疲労でろくに動けないので……午前中は休養を……」

「あぁ、そういうことだったのか」

 ひょいと体を起こして手を伸ばした極夜が、サイドテーブルに置いてあったスマートフォンを取った。

「なるほど……八時だ。お前の体内時計は随分正確なんだな」

 やっぱりいつもの月曜の起床時間だ。

 体を起こすのが怠いのでそのままベッドに横たわっていると、極夜が先にベッドから出た。

「先にシャワー浴びてくるよ、その後で朝飯作ってるからお前はゆっくり起きてくるといい」

 ぐっと体を伸ばした極夜が着替えを手にスタスタと寝室を出て行く。

 その背を見送って、ふっと体から力を抜いた。

 ……なんだったんだ、今の時間は。

 戸惑いの方が勝つ時間だった。

 あの男が現れてたった一週間だ。その一週間で、俺はここまであの狂人だと思っていた男に慣れてしまったのか?

 不意に昨夜の記憶が脳裏を過った。

「…………二十年前……いつもの公園からの帰り道……」

 ぼうっと呟いた刹那、突き刺すような頭痛に襲われて顔を歪めた。

 憶えていないのだ、その頃のことを。

「……」

 極夜は、俺の無い記憶について、なんと言っていただろうか?

「はぁ……」

 頭痛をやり過ごすために思考を放棄した。

 微かに水音が聞こえてくる。

 自分以外の人間がここにいるという事実を知らしめるように。

「今更、か。もう一週間だもんな……」

 とっくに俺の日常に、極夜は入り込んでいたのだ。

 それも、堂々と。

「はぁ……」

 やっぱり思いは大きなため息にしかならなかった。

 慎重に体を起こし、頭がぐらつかないことを確認してからベッドを出た。

 音が止んだのを聞き取ってから、着替えを持って部屋を後にした。

 ベッドを整えるのも……まぁ、後でいいや。

 そう、これも月曜の朝のルーティンだった。


 フラフラと浴室へ入ってシャワーを浴びる。

 着替えてから歯を磨いていると、極夜が「こら」と窘めるような声をかけてきた。

「ふぁい?」

 歯ブラシを口に突っ込んだまま応じると、極夜は呆れたような顔をしていた。

「髪をちゃんと乾かせ。おかしいと思ってたんだよ……お前、ドライヤー使ってないだろ?」

「ふはっへまひぇん」

「……歯磨き終わらせろ、話はそれからだ」

 言われた通りに歯磨きを終わらせると、極夜にキッチンに連行された。

 俺を椅子に座らせると、櫛とドライヤーを手にした極夜が背後に回り込んだ。

 カチカチとスイッチをスライドさせる音がして、ぶわっと熱い風が頭に吹き付けられる。

「……」

「まったく……ここに来た時にドライヤー無かったから買っておいたのに、使ってる形跡がないからまさかとは思ってたが……」

「電気代がかかるので……」

 ぼそっと言ってみるが、ドライヤーの音にかき消されたようだった。

「ちゃんと乾かさないと禿げるぞ」

「……禿げません」

「禿げるんだよ、ちゃんと手入れしてないと三十超えたら抜け毛にビビるようになるんだぞ?」

「……」

 されるがままに髪の毛を乾かされながら、ふと考える。

 そういえば、この男、未来から来たと言っていた。

 五年後の未来……俺と双子だと言うなら、五年後は三十二歳か。

 なるほど、三十代なりの説得力なのだろう。

 わしゃわしゃと指で梳かしながらしばらく風を当てられていると、いつもよりも髪がふわっとしていることに気付いた。

 やがて極夜はドライヤーを止めて、櫛でしっかりと髪を整え始めた。

「はい、これでよし」

「……めんどくさい……」

 呟いた瞬間、ぽす、と軽く頭をチョップされた。

「――今夜からは俺が乾かしてやるから、文句言うな」

 そんな小言の後にドライヤーを片付けた極夜が、調理を再開する。

 俺はそれをなんとなく、ふわっと乾いた髪の先を指で弄りながら眺めていた。


 それからほどなく、朝食がテーブルに並んだ。

 フレンチトーストとミルクたっぷりのコーヒー。

「どうせ食欲ないとか言うだろうから、昨日のうちに仕込んでおいた。これなら甘い物好きなお前は食べられるだろ?」

 全てお見通しだ、とでも言いたげな顔にちょっと腹が立つ。

 それでも、確かにこれなら食べられる。普通にパンを口に押し込んで水で流し込むより随分と文明的だ。

 食前の祈りを捧げ、いただきますと呟いてから、メープルシロップを少し多めに垂らし切り分けて口に運んだ。

 表面の少し香ばしいバターの味、中身はトロっとしていて……甘くて美味しい。

「美味いだろ?」

「……はい」

 癪ではあるが、確かに美味しかったので素直に応じた。

 それからは黙々と食べている俺を眺めて、極夜はとても満足そうに笑っていた。

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