10.安息の日-2024年11月17日、年間第33主日-
食事を終えると、疲れがどっと圧し掛かってきた。
食後の祈りにも力が入らないため、のろのろとしたものになる。――それでも、先週までとは多少違うだろうか。
極夜が教会に現れたのが……えーと、六日前。その晩から食事をしっかり与えられ続けている。極夜の指摘通り、神父になってからは特に食が細く、パンと水ぐらいしか摂取していなかったからか、日曜のミサが終わると倒れる様にベッドに横たわっていたものだが、少なくともこの六日間で少しは栄養状態が改善されたようだ。祈りを終え、「ごちそうさまでした」と告げ、歯を磨きに行ってベッドルームに戻るまでは力が抜けることもなく動くことが出来た。
最後の力でキャソックを脱ぎ、部屋着に着替えてベッドへとヨタヨタ進む。
そのままバフッとベッドに倒れ込むと、スイッチが切れたように世界が暗転した。
***
「白夜?」
声を掛けながらそっとベッドルームを覗くと、白夜がベッドに倒れていた。
「!」
ハッとして近付くと、寝息が聞こえる。
……寝てる?
あのストイックな黒い服から着替えているところを見ると、どうやら今日のお勤めは終わっているようだ。
食後の祈りにも覇気がなかったな、と思い出して、理解した。
体力の限界か。
一人であの長ったらしいミサを行うのは相当な負担なのだろう。その上、今までろくなものを食べていなかったことによる軽度の栄養失調もあったのかもしれない。食事の方は俺が面倒を見るようになってからは多少無理にではあるが、きちんと食べている。それでもたった六日ではそうそう体力が付くわけもないだろう。
倒れ込んだ形で眠っている白夜を抱き上げて、ちゃんと横たえてから布団をかけてやる。ポンポンと胸元を軽く叩いてやると、掛けっ放しだった眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。
――さて、邪魔をするのも可哀想だ。疲れ切っているのならゆっくり寝かせてあげたい。
ベッドルームを静かに出ると、念のために、と聖堂へ足を向けた。
鍵が掛かっているかだけ確認するつもりだった。
ガチャリとドアを開けると、視界に入った人影に一瞬、全身が硬直する。
――まずい、信者か?
俺が入ってきたことに気付いて顔を上げたのは若い男だった。
瞬間、脳内で全力の会議が開かれる。
出来るか?
可能か?
――是。
よし。
「どうなさいました? 本日のミサは終わりましたが」
「あ……すみません、こちらの神父様でしょうか?」
「はい、礼拝にいらしたのですか?」
よし、こいつは白夜の顔を知らない、初見の人間だ。
俺が白夜をエミュレートして会話を続けると、男は力なく笑った。
「少し……生きるのに、疲れてしまいまして……鍵が開いていたので勝手に入ってしまいました……」
まぁ、許可なく入ったとしても白夜なら一旦は咎めないだろう。俺に対してもそうだったし。
「かまいませんよ、私でお力になれることはありますか?」
「……その、懺悔、というか……そういうのを聞いていただくことは……?」
なんだったか……告解? そういうのを聞くシステムがあったな?
『おい、救国の軍師』
邪魔するな、今忙しい。
『この男、精神に影がかかっている。私の世界なら魔物化一歩手前だ』
――は?
『さっさと祓ってやってもいいぞ、私は神だからな』
信仰担当、意見を。
――話を聞きながら神の施術で祓って追い返すべき。
なるほど。
俺は瞬間でこの先の行動を組み立てると、男に聖堂の片隅を示した。
「どうぞ。伺いましょう」
「……ありがとう、ございます」
小さな部屋に入る。
壁の向こう側で男が座る気配。
男はポツポツと話し始めた。
生活が苦しくて、借金を重ねてしまった。
取り立てが厳しくて、思わず逃げ出してしまった。
借りたのだから返さないといけないのは分かっているが、仕事でも理不尽に怒鳴られたりして上手くいかずに減給されている。
死んでしまえば、逃げられるのではないか。
――脆弱、と罵るのは簡単なことだ。
だが、白夜はそんなことはしないだろう。
なにより……。
『あー、なるほど。元凶はその仕事環境だな。私が影を祓って、ついでにちょっと加護を与えてやろう』
気前がいいな、神。
『ふふん、この人間が神に感謝すれば、その信仰は当然、救った私に注がれる。地道な営業という奴だ』
では、そうだな――幸運の加護を授けてやってくれ。
『そんな簡単なことでいいのか?』
十分だ、後は俺が誘導する。
――直後、神が影を祓う力と、幸運の加護が壁の向こう側に満ちた。
「お辛い日々だったでしょう。ですが、神は見ておられます。貴方は誠実であろうとして、歯車が狂ってしまった」
「はい……」
「ここで全てを吐き出して、少し楽になりましたか?」
「その……これからどうしたらいいか……」
「この教会を出たら、全てを捨てるつもりで」
その続きを俺は囁くように伝えた。
「宝くじ売り場へ行きなさい」
「は?」
男のポカンとした声に神の大笑いが重なった。
『あははははは!! 本気か? そんなことでいいならいいぞ、当ててやろう!!』
言質取ったぞ。
「二百円、持っていますか?」
「は、え……あ、はい……」
「それではロト6を一口、お好きな数字でどうぞ」
「え、えぇ……?」
壁の向こうからは困惑している気配。
あぁ神、こいつの選んだ数字、当てておいてくれ。
『なんだ、簡単だな。神が力を揮うまでもないような気もするが、その程度で信仰を吸えるならいいぞ』
そして、俺は白夜の語り口を真似て、静かに穏やかに告げた。
「神は見ておられます。命を捨てようとせず、最後に神の家の門を叩いた貴方の行いを神と主は赦されるでしょう」
「……はい」
「今のお仕事は、貴方には合っていないようですね。借金を返済したら、転職を考えるといいでしょう。神は貴方の行くべき場所へいざなってくださいます」
「…………はい」
「貴方に神の愛が降り注ぎますように」
俺が厳かに口にすると、ゲラゲラ笑いながら神は言う。
『私の愛でいいならドバドバかけてやるぞ! 感謝しろよ、人間!』
喧しい。
男は「ありがとうございます」とぽつりと零して席を立った。
カタンという音の後に扉が開く音、そして男の足音が聖堂を出て行くまで待って、俺は大きくため息を吐いて小さな部屋から出た。
なんだ、この気を遣う仕事は。
こんなことしてたら鬱々としていくのも分かるな。
俺はさっさと聖堂の施錠をして、キッチンへと向かう。
さぁて、今夜は何を作ってやろうか。
疲れている、ということは白夜はまたそれほど食べることが出来ないだろう。
何か胃に優しいもの、それでいて食べやすいもの。
あ、そうだ。
俺はキッチンに戻るなり冷蔵庫を開けた。
「卵、ネギ……よし、買ってくるものは少なくて済みそうだな」
パタンと冷蔵庫を閉めて、すぐに買物へ出る支度をする。
急いで行って来よう、白夜がいつ起きるかわからないしな。
俺は裏口から教会を出て、近所のスーパーへ行くのだった。
***
夢を見ていた。
いつもの赤い悪夢。
少し前から、変わった夢。
赤から橙色に染め直された世界。
抱き締められて安堵した、その後で。
「帰ろう?」
背後の大人がふっと姿を変えて、横に並ぶ。
差し出された手を恐る恐る繋いで。
夕陽で蕩ける誰そ彼時に。
俺の――僕の隣を一緒に歩いているのは。
あの日、失った、もう一人の。
「 」
「白夜、一緒に帰ろう?」
「うん」
手を繋いで歩いていく。
それが当たり前のように。
当たり前だった、日々のように。
ふと意識が浮上する。
「……」
しばしぼうっとしていたが、目元が濡れていることに気付いた。
泣いてたのか?
ぐいぐいとこすって、ゆっくりと体を起こす。
外はもう暗かった。だいぶ寝てしまったようだ。
眼鏡を探して辺りを手でパタパタと触る……が、見つからない。
「んん?」
外した覚えがないからそこらにあると思ったのに。
広くなったベッドの上を慎重に移動して、ようやくサイドテーブルに置いてあるのを発見した。
と、いうことは。
「極夜が……」
外してくれたんだろう。
手に取って、掛けて、ベッドから降りる。
まだ疲労感は残っているが、いつもの日曜日よりはだいぶマシだった。
ベッドルームをふらふらと出て行くと、灯りに導かれるようにキッチンに向かう。
「ん? あぁ、白夜、起きたのか」
「……すみません、ミサの後はいつも休息を取っていますので」
極夜は背を向けたままヒラヒラと手を振った。
「座ってろ、まだ疲れは抜けてないんだろう?」
言われた通りなので、大人しく粗末な椅子に座る。
さっきからなんだか良い匂いがする。
それを察知したのでもないだろうが、極夜は言った。
「食欲は?」
「少しだけ、なら」
「そう言うと思った。すぐ出来るから待ってろ」
その言葉通り、てきぱきと調理を進めていた極夜はほどなくテーブルに二つの器を置いた。俺の分は少し小さい器だった。
「あ……」
月見うどん、かまぼこが入ってるの。
風邪を引いたときに母さんが作ってくれるうどん。
「ほら、お祈りだろ」
促されて手を組んで食前の祈りといただきますをして、箸を手に取った。
ふーふーしながらの一口目。
軟らかくて食べやすい。
黙々と食べながら、ちらりと極夜の様子を窺う。鼻歌でも歌い出しそうな、機嫌の良さそうな顔をしていた。
「食べれるだけでいいぞ?」
「……これぐらいなら、食べきれます」
極夜の出す食事の量がどんどん俺に合わせて手加減されていっている。
これも彼なりの気遣いなんだろうか。
一本ずつうどんを啜りながら時間を掛けて食べきると、ぴったり合わせたように極夜も食事を終えていた。
食後の祈りに極夜も「アーメン」とだけ合わせて、さっさと食器を片付け始める。
洗い物を終えるなり次の行動に移るのを、ただぼんやりと眺めていた。
具体的に彼が何をしているのか、そこまで考えることはできなかった俺の前に、コトンと何かが置かれた。
「……?」
首を傾げて確認すると、牛乳が。
「ホットミルク、砂糖入り。ゆっくり飲んで、風呂入って寝ろ。多少は疲れが抜けるから」
「……どうも」
煮え切らないお礼が口から出て、そんな自分に眉を寄せ、引き寄せたマグカップを持ち上げた。
甘くて、美味しい。
「眼鏡、曇ってる」
クスクスと笑いながら極夜が茶化してくるが、仕方ないだろう。
「眼鏡、外してもいいんですが」
「外すなって。笑って悪かったよ」
極夜もそんなことを言って、カップを傾けた。
「ホットミルク、ですか?」
何の気なしに聞いてみると、極夜はニタリと口端を持ち上げて言った。
「アイリッシュ・コーヒーの生クリーム抜き」
いつの間にウイスキーなんて買って来たんだ。
尋ねるのも変な気がして「はぁ、そうですか」とだけ答えて、ぼうっとホットミルクを味わっていた。
疲労が募ると大概のことがどうでもよくなるのは、俺の悪いところだと思う。
目の前の得体の知れない人間がすっかりここに馴染んでしまっていることも、今は気にならなかった。
だから、訊いてしまったんだと思う。
「貴方は、本当に私の双子の兄なんですか?」
極夜は動きを止める。
カップを置いて、静かに応じた。
「そうだ。お前が失くしてしまった過去を埋めて、お前を助けるために来た。信じる気になったか?」
……。
信じるか、信じないか。
諦めの心は「信じない」と言っている。こいつはただの狂人だ、と。
もう一つの……酷く幼い自分は「もう認めて」と叫んでいる。助けて欲しいんだ、と。
夢の、話を、してしまおうかと思った。
「夢を、見るんです」
「うん」
「小さな背中が夕陽の中に消えていく夢、私だけが取り残されて、悲鳴を上げて」
「……うん」
「そんな記憶は、ないのに」
「……本当に?」
極夜が問いかけて来る。
瞬間、頭痛がした。
「っ――どういう、意味ですか」
「それが、事実だとしたら?」
え?
「事実……?」
極夜は少しだけ目を伏せて言った。その顔を自分が見ていることすら、気にならなかった。
「二十年前、いつもの公園から帰る途中。俺はお前を守るために、お前の手を離して一人で駆けだした。迎えに来る、と言い残して」
「そんな、わけ……」
「嘘を吐く必要がどこにある? 俺は、正真正銘、あの日の夕方、お前の傍らから消えた三冬極夜、お前の双子の兄だよ」
「家に……一人で、帰ったら」
「うん」
止まらなかった。
記憶が、失くしてしまったはずの何かが、溢れだす。
「お母さんが、極夜なんて知らないって……部屋のランドセルもベッドも机も、一つしかなくて」
「うん」
「みんな、憶えてなかった……極夜がいたこと……憶えてなかった」
「お前も?」
「ずっと、良い子で、待ってたのに……迎えに来てくれないから」
ポロリ、と言葉が転がりだして、プツンと世界が真っ暗になった。
「みんなの言ってることが正しいんだって……そう思わないと、僕は」
***
ベタン、と白夜がテーブルに突っ伏した。
「なるほどな……」
ため息を吐いて、白夜が飲み残したホットミルクを証拠隠滅のために飲み干す。
「甘……」
味をごまかすために多めに砂糖を入れたが、これを気にせずに飲んでたのか、白夜は。確かに少し入れたウイスキーの味は分からなくなっているが……警戒心がないにも程があるな。
しかし、ようやく最後のキーが揃った。
――白夜の鎖された記憶。
世界で一人だけ、憶えてしまっていた
「神」
『なんだよ』
「お前のせいだ」
『……直接的にはな。間接的には弟を守ろうとして召喚に割り込んだお前のせい』
「明日で一週間だ、強攻手段に出たおかげて最後のキーが手に入った。神、そろそろ解放してやれるぞ」
『――まだ手強そうだけど? 慣れない酒を飲ませてやっと引き出せたような記憶だぞ?』
「七日目は安息の日。弟を苦しみから解放して休ませてやるにはちょうどいいだろ」
俺はそれで独り言を終えると、手を伸ばして白夜の肩を揺さぶった。
「白夜ー? 寝るんならベッドで寝ろよー?」
「……ぅん……? あ……お風呂、行って、くる……」
寝惚けた声は可愛かったが、さすがに酔っぱらった人間を風呂に入れるのは危険なので、俺は立ち上がって傍らへ行くとぐにゃぐにゃしている白夜を引っ張り上げた。
「ほら、風呂は朝入れ。今日はもう寝ろ」
「うん……」
ダメだ、まともに歩けてない。
仕方なしに力を入れて白夜を抱き上げた。
あの日もこうして抱き上げてたな。
ほんの六日前のことが既に懐かしい。
俺にとっては当たり前にそこに在ってほしかった大切な弟。
一緒に過ごした時間の方が短くなってしまった、もう一人の俺。
だから、密度がすごく濃く感じた六日間だった。
苦労してベッドまで運んだ白夜を寝かせてやると、額にキスを落とす。
「お休み、白夜。明日、お前をその悪夢から救い出してやる」
夢を見ていた。
いつもの赤い悪夢。
黒い服を纏って、赤に染まり、物言わぬ肉塊になった大切な弟。
俺は取り乱して駆け寄り、抱き起こす。
悲鳴混じりの声でその名を叫ぶ。
「白夜!!」
ふと、その姿が腕の中から消える。
喪失したのかと恐怖で体が震える。
「極夜?」
幼い子供の声。
俺の知っている、弟の声。
血だまりがあった場所に膝を抱えて座り込んでいる、小さい姿。
「極夜?」
窺うように顔を上げた子供を、力いっぱい抱き締めた。
「迎えに来た……! やっと、迎えに来れた!!」
俺の声も子供のものになっていた。
腕の中に、自分と同じ姿の弟。
「一緒に、帰ろう?」
「……うん」
二人で立ち上がって、手を繋いで、ペテン師の像に背を向ける。
聖堂の扉を二人で押し開け、その向こうに広がった世界は。
夕陽の橙色に染まった、いつもの帰り道だった。
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