9.しあわせな人、神の恵みを受け、その喜びに生きる人
午前中は大騒ぎの内に過ぎてしまい、午後からは清掃とミサの準備に時間を取られ、今日の俺は珍しく疲れ切っていた。
夕日が落ち切って、名残の深い赤がわずかに届く中でぼんやりと祈りを捧げていると、いつもよりも戻りが遅いことが気になったのだろうか、極夜が聖堂へと入ってきた。
「……」
邪魔をされた、という苛立ちは特にない。
そもそもこの祈りだって惰性で行っているもの。言ってしまえば、意味なんてない。
顔を上げて極夜を見ると、彼は俺の姿と主の像を視線で一往復した。
そのままピタリと俺の顔に視線を固定して薄く笑った。
――咄嗟に視線を外すことが出来なかった。
ぼうっと極夜の顔を眺めていたのに気付いた瞬間、ぶわっと冷や汗が噴き出す。
「……っ」
呼吸が不安定になり、苦しさに毟り取るように眼鏡を外した。
「は……っ」
「白夜……」
「なん、ですか」
声に応じるのが精一杯、跪いたまま立ち上がることも出来ない。
そんな俺に極夜の声が降ってくる。
「まだ、俺の顔は見られないか?」
「……なにを……」
「お前、頻繁に眼鏡を掛け外ししてるとどんどん視力落ちるぞ? 俺の顔を直視しなくてもいいから、眼鏡は掛けておけ」
至極当たり前の指摘だ。
だけど、極夜の顔が見えるかどうか、なんて事よりも……。
「……いえ、プライベートでは必要ありませんから」
「必要ないわけないだろ、食事の時に何度か手が空振りしてるほどなんだから」
う。
それは言い訳が出来ない。
「今日からは眼鏡を掛けて生活するんだぞ、いいな、白夜?」
「う、うぅ……」
呻く俺に歩み寄ってきた極夜は、俺の手を取って引っ張り上げるように立たせると、眼鏡を取り上げて掛けさせてきた。
クリアになる視界、目の前にある極夜の顔。
視線を逸らそうとした瞬間に抱き締められた。
「ちょっ……」
「とりあえずは俺の顔に慣れろ、別に見た目は悪くないだろ?」
そういう問題じゃない。
――理由は分からないが、極夜を見るのが怖いだけだ。
何か、思い出しそうになるから。
「……善処します……」
「それ、NOじゃないだろうな?――まあいい。そろそろ戻れ、夕食の時間だ」
俺を離した極夜が、ついでに頭を撫でて来た。
子供扱いだな、本当に。
ため息をついて聖堂の施錠をしてくると、何故か待っていた極夜に連れられて聖堂を出た。
いつも通りに眼鏡を外そうとして「白夜ー?」と極夜に名を呼ばれた。
……うぅ。
落ち着かない。が、仕方ない。
「……着替えてきます」
「あぁ、眼鏡は外すなよ?」
「わかりましたよ……」
ベッドルームへ入る俺を見送っていたらしい極夜の足音が、キッチンへと向かっていく。
「はぁ……」
もそもそとキャソックを脱いで部屋着に着替えると、クリアな視界のままなことに違和感を抱きながら部屋を出た。
途中で洗面所に立ち寄って手を洗う。
鏡がある場所に掛かっている布。
「……無理だ、鏡だけは……」
ポツリと呟いた。
十年以上、鏡は見ていない。見られない。息が苦しくなって、理由もなく涙が溢れて、感情任せに叩き割ったことすらあったからだ。
教会の備品にそんなことをするわけにはいかないので、赴任したその日に目を瞑って布を掛けて、以来そのままだ。
普段は気にならないが、眼鏡を掛けているせいで白かった布が薄汚れていることに気付いた。
このままなのは、いささか気分が悪い。目を逸らして布を剥ぎ取ると洗濯籠に突っ込んだ。そのまま洗面所を出ると、キッチンへ向かった。
最近は少し慣れてきた、良い匂い。
極夜の背中が見える。
「戻りました」
声を掛けると、極夜は背を向けたままヒラヒラと左手を振った。
「座ってろ、もうできる」
俺が椅子に座って間もなく、食卓に今夜の食事が並んでいく。
白米、豆腐の味噌汁、それとこれは……。
極夜は俺の向かいに座り、ふふんと笑った。
「鶏大根、母さんにレシピを聞いた」
「……また、母さんに何か……」
「いや、お前の母親ってことは俺の母親でもあるからな?」
そうだ、双子の兄らしき存在なのだからそうなる。
俺は小さく息を吐いて食前の祈りを済ませて「いただきます」と口にしてから箸を手に取った。
――鶏大根は、実家にいた時に食べた懐かしい味がした。
***
日曜日。
いつもの時間に目が覚める。
今日は極夜の腕の中に収まって寝ていた。
「……」
そろそろ、何か言う気も失せてきた。
何とか極夜の腕から抜け出すと、傍らに置いてあった眼鏡を取り、ベッドを降りる。
確かに、眼鏡を掛けて生活するのは楽だ。
距離感も誤らないし、クリアな視界は安心感がある。
ただ。
ちらりと、眠っている極夜を見た。
――険しい顔をしている。
また、悪夢を見ているんだろうか?
眠っている顔なら、反応がないから眺めていられるのもちょっとした発見ではあったが、今はそれどころではない。
ミサの為にすべき支度がある。
「う……」
微かな声が聞こえた。
極夜の手がパタパタと何かを探している。
「私はこっちです」
思わず声を掛けると、ガバッと極夜が身を起こした。
「っ――白夜……おはよう」
安堵した様な声。
あぁ、やはり悪夢を見ていたのかもしれない。
俺は努めて平静を保って伝えた。
「おはようございます。今日はミサなので忙しいんです。先にいきます」
「あぁ、軽い食事を用意しておくよ」
視界にいる極夜は穏やかな顔をしていた。
ふい、と視線を逸らした。
――やっぱり、見ているのが、苦しい。
さっさと身支度を整えるために洗面所に向かい、まともに鏡を見てしまった俺が悲鳴を上げて、極夜が駆けつけてくる、というトラブルがあったが……自分のうっかりさが嫌になっただけなので、詳しく語りたくはない。
うずくまって顔を覆い震えていた俺を、極夜が抱き締めて宥めてくれていた、という程度のことだ。
***
「神よ、あなたはわたしの受けるゆずり、わたしの受ける杯、わたしの道を開くかた」
白夜の声が聖堂に満ちる。
背中越しにそれを聞きながら、俺はぼうっとしていた。
もちろん、頭の中は常にフル回転している。それはもう日常の一部なので、特段気を張るようなことでもない。
だから、弟が聖書の朗読をしているのを黙って聞いていた。
聖堂には入れないので、ドアに背中を預けたままだったが。
ちょっと調べてみたところ、ミサで朗読される聖書の内容は決まっているものらしい。
今、白夜が読み上げているのは今日読まれるべき部分なのだろう。
「わたしは絶えず神を思う。神はわたしのそばにおられ、わたしは決してゆるがない」
あぁ、今、弟はどんな思いでこれを読み上げているんだろう。
神などいない、という弟が。神を見限った白夜が。
「わたしの心は喜びに満ちあふれ、からだはやすらかにいこう」
朗読は続く。
その内容には微塵も興味はなかったが、白夜の声を聞いているのは好きだ。
こちらに戻って物言わぬ肉塊に成り果てた白夜にしか触れられなかった事を思えば、俺の中に留まっていた子供特有の高い声ではない、今の白夜の年相応に落ち着いた声は心地よい。
だから、黙って、白夜の声だけを聞いていた。
それからしばし朗読は続き、白夜の声が途絶える。
「主のみことば」
白夜の言葉に信徒達の言葉が続いた。
「キリストに賛美」
その後、一頻り白夜の説教が続く。
内容に関しては、正直、興味がない。
いかにも神父らしい、綺麗事を述べているのだということだけが分かった。
その後も長々と祈りの言葉が続く。
それからは……良く知らないが、供物を準備し、祈りを捧げ、信徒にパンを授ける……だったか。
さすがに白夜の声を聞いているだけだと退屈になってきたが……弟がお勤めを嫌々やっている可能性を考えれば大した問題ではない。
頭の片隅では「今日の昼食はどうするか」とか「鏡に掛ける布をさっさと乾かさないと」とか様々なことを考えているが、それはそれぞれの担当が勝手に答えを出して俺に渡してくるから俺が何かする必要はない。
『なんだ、この退屈な儀式は?』
黙ってろ、神。
これが弟の仕事なんだから。
『キッツ……こんな事を信仰として強いるなんてろくでもないな』
同感だ。
おまけにあの神は人なんて救わない。
『私は人を救う分だけあの神より上だな』
ふんぞり返って言うことか、うっかり神め。
『ちゃんと後払いしてるだろ、いい加減、私を解放しろよ』
弟を確実に助けるまで、という契約だ。忘れたとは言わせないぞ。
『チッ……手っ取り早く決めろよ。私は自分の世界を放って来ているんだぞ?』
あぁあぁ、うるさい。
あと数日だ。
数日で、事態は動く。
白夜を救うためのキーは揃いつつある。
『ふーん、まぁ、お前が言うんならそうなんだろう。それまでなら付き合ってやる』
有り難いことだな、神。
『感謝しろ、私はそれを食って神格を上げているのだから』
そろそろ引っ込んでくれ、ミサが終わるようだ。
俺の警告に神の気配はスッと消えた。
聖堂から閉会の祈りが聞こえ、ややあって子供達の歓声が上がった。
――どうやら神父様のクッキーは好評の様だな。
俺は小さく笑ってキッチンへ向かった。
そろそろ昼食の時間だ。
おにぎりと、卵焼きと、ウインナーか、いいな。
多少冷めても問題なく食べられる。その上、甘い卵焼きもウインナーも白夜の好きなものだ。
「いい判断だな、糧食担当の俺」
呟いて袖をまくる。
さぁ、支度を始めよう。
気疲れして戻ってくるだろう、可愛い弟のために。
***
ミサが終わり、信徒を送り出し、頂いた寄付をきちんと管理し、聖堂内を清掃して、疲れ切って聖堂を出た。
いつもの癖で眼鏡を外しそうになったが、掛けていないと極夜に何を言われるかわからない。
結局眼鏡を掛けたまま、恐る恐る洗面所へ入り、鏡を見ないように……とそっと顔を上げたら、応急的な処置なのか、バスタオルが掛けられていた。
「あ……」
ホッと息を吐く。それが極夜の気遣いなのだということは理解できた。
さっさと手を洗い、キッチンへ向かうと、極夜が「お」と一声上げた。
「お疲れ、昼飯、出来てるぞ」
「それはどうも……」
見れば、おにぎりと卵焼きと炒めたウインナー。
……ここまで好みを把握されているのはちょっと怖くもある。
が、さすがに一人でミサを執り行った後は疲労しているのも事実だ。
食前の祈りを捧げて、いただきますを言ってから、おにぎりに手を伸ばした。
もしゃりと噛り付くと、鮭。
「鮭だろ?」
「……鮭ですね」
「俺も好きだからな」
「そうですか」
二人で黙々と食事をする。
疲れて戻った後に自分で食事を用意するのが億劫だったこれまでを思うと、極夜がこうして食事の用意をしてくれているのは本当に有り難いことなんだと思えた。
「――ありがとうございます」
「ん?」
「食事……私一人では、こんなに手が回らないので」
「甘やかされるの、いいだろ?」
「――私はいい大人なんですが」
「大人だって甘えていいんだよ。大体、お前、放っておいたらパンを水で流し込んで終わりだろう?」
「……まぁ、そうですが」
「胃袋を掴むのは鉄則だ。その面ではもう俺から離れがたいだろ?」
――悔しいが、その通りだ。
食事を作って待っていてくれる人がいる。
それは、俺にとって確かに心が休まる事ではあった。
そもそも、極夜は俺の好きなものばかり作ってくれるし。
そんな甘えた考えがちらりと過って、俺は苦労して難しい顔を作った。
「やっぱり、何か企んでいませんか?」
「言っただろ、甘やかすって」
はぁ、そうだった。
「だから、お前は俺に甘えていいんだよ、白夜」
――堕落を誘う悪魔だ、これは。
俺は何か言う代わりに卵焼きを箸で摘まんで口に入れた。
――甘くておいしいのが、ちょっと腹が立った。
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