【幸せ】本当の幸せに至る「未完成の幸せ」のススメ

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

幸せになりたければ、少しだけ「不幸」を残しておくと良い

人は誰しも、生活の質を上げたいと願う。より快適に、より便利に、より豊かに――。それは人間の本能かもしれないし、現代社会の空気がそう仕向けているのかもしれない。しかし私は、あえて「生活の質を上げないように気をつけている」。


それは私が怠け者だからではないし、向上心がないわけでもない。ただ、あるとき気づいてしまったのだ。生活の質を上げれば上げるほど、「幸せを感じるハードル」も同時に上がってしまうのだということに。


私は一時期、急激に生活が良くなったことがある。引っ越しをして、快適な部屋になり、風呂も広くなった。電子レンジは高性能になり、ベッドもふかふかになった。それまで我慢していたことを一つずつ解消していった。最初の数日は嬉しくてたまらなかった。これが豊かさか、これが幸せかと思った。


だが、一ヶ月も経たないうちに、私はその快適さに慣れてしまった。広い風呂も、高機能の家電も、何も感じなくなった。感動は失われ、当たり前が増え、そして不満がまたじわじわと顔を出した。「もっと良いものがあるんじゃないか」「さらに上の生活を目指すべきじゃないか」と。まるで、底なしの井戸に水を注いでいるような感覚だった。満たしたはずなのに、満たされない。


そのとき、私は逆の発想を思いついた。もしかして「生活の質を上げないこと」こそが、幸福を長持ちさせる方法ではないか?と。

幸せを追いかけることが、かえって自分を不幸にしているのではないか?と。


それから私は、意識的に生活の質を上げすぎないようにした。たとえば、エアコンの温度を少し高めに設定する。少し歩いて遠回りする。お気に入りのカフェには毎日は行かない。たまの贅沢を「特別」に感じられるように、普段はあえて「普通」でいるように心がけた。


すると不思議なことに、日々の生活の中に「嬉しいこと」が増えていった。コンビニで買った100円のコーヒーが、まるで高級カフェの一杯のように美味しく感じられた。誰かにおごってもらったご飯が、信じられないほどありがたく感じた。寝苦しい夜にエアコンを入れたときの快適さに、心の底から「助かった」と思えた。


幸福というのは、絶対的なものではなく「相対的なもの」なのだと、私は身をもって知った。つまり、何かが良くなったときにしか、幸福は感じられない。だから、普段の基準を低くしておくことが、結果的に幸福の感度を高めてくれる。これは決して我慢を美徳とする日本的な精神の話ではない。もっと理性的で、幸福を長く維持するための「戦略」なのだ。


もちろん、生活の質を上げることが悪いわけではない。病気になったときには清潔な環境が必要だし、疲れた心には少しのご褒美も大切だ。ただ、それが常態化してしまうと、「何も感じなくなる」怖さがある。私はそれを、身をもって経験した。


だから私は、たとえ収入が増えても、あえて生活レベルを上げないようにしている。物欲が芽生えても、それが「本当に必要なものか?」と問う癖がついた。便利すぎる有料アプリも、あんまり利用しないようにしている。お金を使う前に、「これがあることで、自分の幸福のハードルが上がってしまわないか?」と一呼吸置くようにしている。


この生き方は、ある意味で「幸せの節約術」と言えるかもしれない。無理して質素にしているのではない。快適に「慣れない」ようにしているだけだ。快適さに慣れないということは、小さな幸せをずっと感じ続けることができる、ということだ。


私たちはよく、「もっと上へ」と求めるけれど、幸せになりたいなら「下げる」ことも選択肢の一つだ。期待値を下げ、当たり前を減らし、感謝を増やす。生活の質を上げないことは、むしろ精神の質を上げる方法でもある。私はこの選択をしてから、日々が穏やかになった。欲望に引きずられることも少なくなったし、心の平穏も長続きするようになった。


あえて生活を少し不便にしておく。あえて望みをすべて叶えないでおく。そんな「未完成の幸せ」こそ、私たちにとっては完成された幸せなのかもしれない。


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