第2話



貴方と話したら心が少し落ち着いてきたので、外の空気に当たって来ますと言うと、司馬孚しばふは止めず「どうか温かくして」と陸議の首に布を巻き付けて、外套で包み込んで送り出してくれた。



 ……そうかもしれない。



 飄義ひょうぎと戦わせた時、

 司馬懿しばいは「飄義を殺せたら呉に返してやる」と言った。


 あの男は相手に真剣であることを望む。


 確かにあの時陸議が死に物狂いになり、飄義を圧倒的な武で制して殺していたら、呉に本当に送り返したような気が、今はしていた。


 普通はそんなことはしない。

 飄義にあれだけ手間を掛けさせ、完璧な間諜として呉に送り込んでいた。

 しかも彼は甘寧かんねいの側仕えをし、甘寧だけではなく、呂蒙りょもうなどにも会っている。

 

 殺しの命令を受けていたら、必ず殺せたはずだ。


 だが司馬懿が飄義に与えた命令は、ただ一つ。

 陸議を攫い、に連れてくることだけだった。


 それ以上のことをすれば、余計なことをするなと飄義の首を斬っただろう。

 

 司馬懿が何となく、人間を動かすことはない。

 それに明確な命令を一人一人に与えている。

 

 自分に与えられた命令は、戦場で戦え、魏の敵をお前の剣で殺せ、それだけだった。


 迷いなくそれが出来るかどうか。


 飄義ひょうぎと戦わせた時は、陸議の、戦う意志のようなものを見定めようとしていたのだと思う。

 お前を殺してでも呉へ帰るという意志を見せつければ、司馬懿は頷き、容易く陸議を放り出し「次に戦場で会うのが楽しみだ」などと笑って終わりにした気がする。


 間諜かんちょうを潜り込ませるという莫大な労を消費しても、相手が真剣であると分かれば司馬懿はそれを認めるのだ。



 空を見上げる――。



 頭上に広がる、星の海。



 涼州騎馬隊りょうしゅうきばたいと戦う。

 しょくと戦う。


 ……と戦う。



(我が祖国)



 そう思って、ずっと生きて来た。

 自分はまだ、人間として全然時を生きていないと思うけど、それでも幼い頃から、ずっとそう思って生きてきた。

 

 最初は陸家のため。

 次は孫家のため。

 それが続いて、孫呉という形になった。


 呉軍の軍師として、呉軍の敵と戦ってきた。


 共に戦って来た者達の顔が過る。


 呂蒙りょもう淩統りょうとう


 彼らは戦場で自分を見たら、自分に失望するだろう。

 驚き、何故周瑜しゅうゆの死を見届けた貴方が敵に降るんだと嘆くのかもしれない。



甘寧かんねい殿)



 ずっと封じ込んでいた、その顔を思い出す。


 彼は降将だ。

 彼は孫堅そんけんの代から孫家に仕えている者が多い呉軍の中でも少し異質だった。

  

 元々呉の敵として、戦っていた。


 そのことを、初めて現実味あるものとして陸議は意識していた。

 

 夏口かこうの戦いでは、実際に淩統りょうとうの父親が甘寧の手によって討たれている。

 それに同じ戦いで孫策と周瑜しゅうゆが甘寧に夜襲を受けて、危うく周瑜の首まで討たれかけたと笑っていたのを聞いたことがある。


 甘寧ならば、敵として襲来する自分を、驚かず受け止めるのだろうか?


 赤壁せきへき龐統ほうとう諸葛亮しょかつりょうを逃した時、憔悴した自分を見て甘寧が激怒した。



『それで終わりか、陸伯言りくはくげん



『孫策も討たれた、諸葛亮は逃がした、しかも龐統のせいだ? 

 だったらやることは一つだろうが。

 龐統を追って捕らえて、お前に牙を剥いたことを死ぬほど後悔させるんだろ?

 諸葛亮を追って今度こそ殺すんだよ!』


『龐統は、呉にいるべきじゃねえと俺は言ったな。周瑜もだ。

 それを、呉に留まらせ続けたのは誰だ? お前だろうが!』


『龐統如きに牙を剥かれて、怯んで、遅れを取って、

 お前はそこまでかって言ってんだよ!』


『とっとと剣を抜け』


『ここまであいつに煮え湯を飲まされて黙って引き下がるつもりか!

 お前が留まらせた災いだ。

 お前の手で討ち取って来い‼』



 彼は戦場で、陸議が膝を付き、全ての手を封じ込まれて、動けなくなっている姿に無性に怒りを感じたと後日言っていた。


 ただひたすら、そんな姿を見たくなかったのだと。



 彼もいつも、相手に真剣であることを求める。



 他愛ない話もたくさんしたけれど、


 人間同士が、感情で向き合わなければならない時、 

 相手の心が自分をしっかり真剣に見据えていないことは、決して許さなかった。


 甘寧かんねいは元々、水賊上がりだということに拘って自分を重用しなかった劉表りょうひょう黃祖こうその許を去っている。


 彼はそこにいる以上、彼らの為に敵を斬る覚悟があったからだ。

 それを信頼されず、失望して去った。


 今の自分が甘興覇かんこうはの前に立った時、彼は自分をどう見るだろう。

 陸議は星の海を見上げたまま、考えた。


 もし、本気で甘寧に斬り掛かることが出来るなら、

 甘寧に陸議が本気であるのだということが伝われば、

 彼は喜んであの黒耀こくようの大剣の切っ先を陸議に向けて来る気がする。


 飄義ひょうぎを殺せたら呉に返してやると言って見せた司馬懿しばいのように。

 俺を殺せたら、お前の本気を認めてやると。


 司馬懿すら剣で納得させられない自分が、

 甘寧を納得させられるはずがない。



(あの人と斬り合う覚悟)



 甘寧が与えてくれた、幾つもの、光ある言葉や行動が、

 脳裏に蘇る。


 誰にも心を開けなくなっていた自分に、

 人と生きることを教えてくれた人。


 甘寧を殺すことなど、決して出来ないと思う。

 でも甘寧の手に掛かって死ぬなら、悔いは無いとも思える。


 司馬孚しばふは戦場は命の遣り取りをする場所だと言ったが、

 生きる場所だとも言った。


 きっとその通りだ。


 戦場で生き残った時、平時のどんな状況よりも自分が力を尽くして、発揮して、生きていることを感じられる。


 この気持ちは、甘寧も知っているはずだ。


 で生きること。

 魏での生を、諦めないこと。


 徐庶じょしょの顔が過る。

 その時が来るまで剣が振れるか、分からないと彼は言った。


 確かにそうだ。

 自分でも分からない。

 相手を殺してまで自分が生きたいと思えるかどうか。

 

 陸議には自分に対して大きな疑問があるのだ。



(どうして私は許都きょとに来た時に死ななかったんだろう?)



 司馬懿は別に、陸議の四肢を封じ込んで牢に繋ぎ、自由を奪っていたわけではないのだ。

 自由を与え、剣を与え、考える時間も与えてくれた。


 だから死ななかったのは陸議の意志だ。

 勿論迷いもある。

 自分を守ろうとして死んだ陸康りくこう

 そういう存在が、いすぎた。

 守ろうと、共に生きてくれた者達が多すぎて、


 この星の海ほど多いように思えて、


 自分の命が、自分の意志で投げ出して許されるようなものに、思えなかった。


 故郷を去り、

 故郷の敵だった国で生きていても、

 自分の命を軽く思えないのは、彼らのおかげだ。


 建業けんぎょうに来る前の陸議ならば、許都きょとで目覚めた時、

 司馬懿に抱かれたあの翌朝に、あの回廊から迷いなく身を投げて、死んでいた。


 だけど多分、それは「強いから」じゃない。

 心が強いからそう出来るのとは違う。


 大切なものがなかった。

 自分がいなくても陸家には陸績りくせきがいたし、

 生き恥を晒してまで生きて、守りたいものもあの時はなかった。


 だから死ねた。

 それは強さじゃない。

 弱さでもないと思うけど、


 大切なものがなくて容易く自分を殺せる人生より、

 大切なものがあるから、いざという時にとことん抗える人生の方が、

 生きていると陸議も思う。



(だけど私の大切なものはもう……この手から離れてしまった)



 龐統ほうとう



 彼の死に、心を明け渡した時に、

 彼に心を奪われた時に、陸議は大切なものを失ったのだ。

 許都に来た時じゃない。


 それより前に、呉という心の支え、そのために自分の心と命をひたすら費やすのだという強い心をすでに失っていた。


 その強さを失った心では、


 司馬懿のあの強固な意志を跳ね返せず、戦場で戦う為に生きろという要求を拒否出来ず、

 生きることになっている。



(……でもそれだけじゃない)

 


 大切なものを失って、

 生を強要されても、

 まだ絶望しきっていない何かがこの身体の中にある。

 それが捉えきれない。

 でも、

 ごく最近、捉えそうな感覚を得た。

 洛陽らくようでだ。


 徐庶じょしょと母親の遣り取りを聞いた時、何かが分かりそうな気がした。

 徐庶を無事に洛陽に戻せたら、それが分かるのではないかと思った。


 

 ――星が流れた。



 星の海に、綺麗に尾を長く引いたから、目立った。

 その星の行方を辿るように自然と視線を下ろせば、静かな夜営地に立っているその姿を見つけた。



 ……後に、陸議は彼に問いかけたことがある。



『なぜ、貴方は私が現れてほしいと思う時に現れてくれるのですか?』



 その時は、はっきりと分からなかったが、

 そのうちに何度かそういうことが重なると、

 その問いが形になった。


 陸議がそう初めて問いかけた時、

 彼は目を瞬かせた。




『それは…………俺がずっと君に聞きたかった言葉だ』




 徐元直じょげんちょくとは、

 結局、

 人生の最後まで、その問いを繰り返す関係になる。



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