花天月地【第42話 想う夜に】

七海ポルカ

第1話



 日が落ちた。



 あたりは静かだ。


 今日はもとより緊張感のある夜だったのだが、陸議りくぎはこの幕舎に入った時点で緊張の糸が切れてしまった。

 それでも司馬孚しばふは、兄である司馬懿しばいを呼ばないままにしてくれたので、陸議はしばらく好きなだけ泣くことが出来た。


 司馬孚がいてくれて良かったと心から思った。

 彼がいなかったらこういう場合、直接情報が司馬懿に行く。


 司馬懿も不思議な温情を陸議に掛けることはあるが、本来他人に心の内を曝け出すことを苦手とする陸議にとって、司馬懿と言えども何もかもを知られている状況は、逆に精神的な負担になってくるのだ。


 司馬孚は兄に忠実だったが、人の心の分かる人間だったから、

 こういう時は司馬懿を呼ばないでいてくれる。


 勿論、陸議が自分で悩み、自分で立ち直ってくる限りは。


 打つ手が無くなったら彼も司馬懿に報告せざるを得ないのだが。


 陸議が泣いていたので司馬孚しばふは寝台に彼を寝かせて、そんなに大きくもない幕舎の簡易的な寝台に寝そべり、寒くないよう毛布を掛けて寄り添ってくれた。

 まるで子供をあやすような体勢だが、何も上手く説明できず、泣いて帰ってくるなんて子供のようなというよりは子供そのものだったから、陸議はもう抗わなかった。


 ここはすでに戦場で、敵の巣の中に入っていると言っても過言ではない。


 先程の幕舎でも今夜夜襲があるかもしれないという話をして来た。


 平時ではないし、

 許都きょとの街ではない。


 子供のように泣こうが、縋り付こうが、どんな手を使ってでも陸議は立ち直らなければならないのだ。


「……伯言はくげんさまは……戦場が恐ろしいですか?」


 陸議の柔らかい栗色の髪をそっと撫でながら、司馬孚が尋ねてくる。

 ようやく泣いていた陸議の目から涙が止まり、彼は泣き疲れた顔で瞳を伏せ、少しだけうとうととしているようだったから、このまま眠らせてやっても良かったのだが、司馬孚は聞いておきたかったのだ。


 これから遠征軍は更に西に進む。

 築城し、涼州騎馬隊が現れれば戦闘になる。


 これが長安ちょうあんへの帰り道だったならば、今は静かに眠らせてやって、許都に戻ってから、落ち着いたときに尋ねればいいことなのだが、むしろ遠征の戦いはこれから始まるのだ。

 心の迷いを、残しておきたくはなかった。


 陸議は長い睫毛を伏せたまま、小さく首を振った。


「……兄上も、そのようなことを言っていました。

 私は、貴方の戦う姿を知らない。

 でも、才ある方なのだということは分かっています。

 人を斬ったり、傷つけることがお好きではない、優しい心を持っていらっしゃることも。

 戦の才能というものは、少し才の中でも異質だと私は思います。

 情け深い人間にも、数多の策謀を編む才が宿ることがある。

 そういった策謀は表に出すと、戦場では、何百、何千の人の命を奪うことにもなる。

 優しい人でも才があれば、それだけの人間の命を奪えるのですから。

 ……不思議です」


「……。」


「でも……こういった国が関わる戦いというものは、優しい人でも国を守ったり家を守ったりするために、身を置くことがあります。そうしなければいけない時が」


「…………叔達しゅくたつ殿が、そうですね」


 ただなんとなく陸議に伝えたいと思って話していたので、陸議が答えなくてもいい、と考えていたのだが、声が返って、司馬孚は瞳を瞬かせた。

 陸議は、当然まだ泣き腫らした目はしていたが、唇に少しだけ笑みが見えた。

 司馬孚しばふは安堵する。

 きっと何か、心の強い陸議が涙を堪えられないほど辛い何かがあるのに、自分を心配させまいと、こんなに短時間で心を落ち着かせてきた陸議を、司馬孚は心の底から尊敬した。


「私は……優しいのとはまた違います。

 兄上にも申し上げましたが、陸議さまを見ていると、平時はあんなにも穏やかで優しく、戦以外にも聡明でいらっしゃるのに、戦の才にも恵まれていらっしゃいます。

 貴方は私より年下ですが、それなのに……なんというか人間としての深みが全く違う。

 私も司馬家という、一風変わった家に生まれて来たとは思っているのですが、優秀な兄弟達とは少し違いますし……いえ、そういう私をほっといてくれたというか、いい意味で見放してくれる所もありますから、私には合っていたのです。

 とりとめもなく勉学がしたいと言えば、嫌そうな顔や呆れた顔はされましたが、学びはいつもさせてもらえました。

 でも私が思うに、陸議様のしてきた学びと、私の学びは何かが根本に違うように思います。多分、それを知りたくて私は今回戦場に来ようと思ったのです」


「……学びの根本?」


「はい。つまり、私の学びはあくまでも知識を書から得て――学院で、先生に教えていただき、同門の者達と語り合うようなものですが、戦場を知るという陸議様は、戦場でも何かを学んでいらっしゃる。

 戦場に書はありません。

 あるのは人です。

 人と人との命の遣り取り。

 自分の命もまた、一歩間違えれば失われるという緊張感の中で、

 貴方は必死に学んで来られた。

 平時と、戦場。

 それは別々の場所で、別々の全く違う時間が流れているわけではないのではないかと、貴方を見てて思うようになった。

 私は私に戦の才がないから、戦場に立つ意味はないなどと考えていました。

 そこに私の望む知識は何もないと。

 敵を殺める知識、策、そんなものは私の人生において、何の役にも立たないと――。

 ……失礼ながら、心のどこかでそう考えていたのだと思います。

 

 でもそうじゃない。


 戦場にも生きるために、学びとなる知識はあるのです。


 戦場は命の遣り取りをします。

 それは、自分の持てる知識の全てで、いざとなれば状況を打開するということなのです。

 だから戦場では生きる知恵や生きる知識が磨かれる。

 貴方が、真っ直ぐに人を見つめて話すその仕草一つでも。

 必死に戦って生きてきた方だからそうなのだと思います」


叔達しゅくたつどの……」


 司馬孚しばふが、そこまでのことを考えていたとは思わなかった。

 司馬懿が何故、彼の従軍を許したんだと不満に思っていたが、司馬孚は兄にも話したと言っていたから、司馬懿しばいもこういう話を聞いて、弟が求めているものが理解できたから従軍を許可したのだろう。

 

 陸議相手には、理解しがたい情念を見せてくる司馬懿だが、他の人間に対しては非常に理知的に判断を下す。

 

 ここまで考えた司馬孚が、戦場でやはり敵の手に掛かることは勿論あり得る。

 それでも本人がここまで考え望んだならば、死んでも悔いはあるまいと考えたに違いない。

 

 覚悟のない弟が戦場にやって来ることは決して許さない男だが、

 覚悟を定めたと判断したならば、弟に死んでほしくないと祈り捧げるほど、司馬懿は身内への情がない。


「……兄上のことを考えておられるのですか?」

「よく……分かりましたね」


 司馬孚は「はは……」と温かみのある顔で笑った。


「少しだけですが、伯言はくげん様が兄上のことを考えておられる時の表情が分かるようになって来ました」

「……どんな顔ですか?」

「深刻な顔をされますね。良くも悪くも。

 でも、あの兄上相手ならば、致し方ないと思います。

 あの方がそもそも相手に真剣でないことなど、望んでおられない。

張春華ちょうしゅんか殿が貴方を襲わせたでしょう。

 あの時、事実を知ったとき、兄上は笑っておられた。

 驚かれませんでしたか?」


 陸議は少し考えて、小さく首を振った。


 別に驚きはしなかった。

 非常に司馬懿らしい反応だと思ったのだ。

 司馬孚は首を振られて、驚いたようだ。


「本当ですか? ……伯言さま本当に、心の深い寛容な方ですね。

 そのことに私はいつも驚きます。

 ああでも……そういう貴方だから、仲達ちゅうたつの兄上は貴方に側にいてほしいと望んでおられるのではないかと思いますよ。

 

 普通の男は、あそこでは怒ります。

 大切な方を傷つけられそうになったのですから。

 怒って、すぐ張春華ちょうしゅんか殿に抗議したでしょう。

 でも兄上は笑っておられた。


 ――張春華殿が、初めて見せた本気の覚悟だからです」


 陸議は目を瞬かせた。


「伯言さま?」

「いえ……なるほど、と今思いました」


 司馬孚しばふの顔を見上げる。

 

(……このひとは)


 確かに一番最初から穏やかで人の良い人物だなとは思ってきたけど。

 

 もしかしたら非常に人を見る目があるのかもしれない。

 自分の兄のような存在のことでも一挙一動を見て、色々なことを感じ取っている。

 司馬懿をここまで理解出来る存在など、この世には曹丕そうひ以外いないのではないかと思っていたが。


「なるほど、ですか。

 本当に伯言様は大物ですね。

 あなたはそういう所は、私から見て、仲達ちゅうたつの兄上に少し似ていますよ。

 とんでもないと思うことでも、何故かスンと、受け止めてしまわれるのです。

 

 実際、春華殿が『陸佳珠りくかじゅと仲良くなりたいから留守の間ちょう家に来させてほしい』などと取り繕った正妻顔をなさっていた時の方が、兄上は忌々しそうにしておられました。

 佳珠殿を、その辺のおなごと同じようにどうとでも出来ると、春華殿が真剣に考えておられなかったからです。だから怒っておられた。

 

 しかしあの時は、やり方は――到底許せるものではありませんし、女性としても私は信じがたい乱暴なやり方だと思いますが、そういう人間であると例え兄上に失望されても貴方を狙った。

 そういう顔を春華殿は今まで見せたことがなかった。

 だから愚かだ、と言いながらも笑われたのだと思います。

 兄上は、相手には真剣であることをいつも求める」


 奇しくも、違う話題ではあったが、

 賈文和かぶんかが、郭嘉かくかを戦場に連れてくるかどうかの話をしている時に、

「そこまで覚悟して、国のために自分の力を使いたいと望んでいる郭嘉に、体調だけ気にして留守を命じても、身体は無事かもしれないが、心は死ぬだろう」と言っていた。


 司馬孚しばふに対しても、司馬懿は多分身内の情を越えたところでそう考えたのかもしれない。

 戦場で人を学ぶと言った以上、司馬孚は必ず学ぶ人間だと信じたのだ。


 きっと。


 そういう人間に「お前は大切な弟だから出陣は駄目」などと言っても、

 未練になったり、そうすることで心の成長を殺してしまうことになる。



(司馬懿殿は、信じているんだな。叔達しゅくたつ殿を)


 

 司馬孚に何かがあっても、 

 司馬懿は泣かないのだろうか。


(きっと、そうなのだろう)


 強く、信じて理解しているから。

 その人が戦場に降り立った意味を。




『…………そうか』




 孫策そんさくの死を伝えたときの周瑜しゅうゆも、驚くほど静かな表情をしていた。

 

 静かな声で、そう答えただけだった。

 涙もなかった。


 あの時は、すぐに自分も命を失うことが分かっていたためかと思っていたけれど。



(……周瑜様も、孫策様を信じて、理解していたから泣かなかったのかな……。

 共に戦おうと全力を尽くして、戦いきったから。

 未練がないはずだと、信じ抜けたから)



伯言はくげんさまを見ていると、他人には簡単に理解しがたい、難しい、厳しい所を持っておられる仲達ちゅうたつの兄上と、いつも真剣に向き合って下さっていることを強く感じます。

 私は弟として、それがとても嬉しいのです。

 兄は非凡でしたから、幼い頃から周囲の人間に理解されることがあまり無かったのです。

 それすらあの人は糧として、望んで、そうする強さがあったから孤独であることも、楽しんでいるようにすら見えることがありましたが。

 

 しかしいつか誰かが現れて――そんな兄を理解し、信じ、あの人が大きな使命を果たせるように側で支えて下さったらと思っていました」 



「……確かに仲達殿のことを考えていました。

 私は、……貴方がそこまで真剣に考えて、自分には今こそ戦場に行くことが必要なのだとそう考えて、従軍されたと分かっていませんでした。

 でも貴方の話を今聞いて、きっと仲達殿は貴方を信じて、今の貴方なら戦場を学びの場に出来ると確信して、従軍を許されたのだろうと分かった」


 司馬孚は微笑む。


「……私は、貴方が兄上のことを考えて下さってる時の顔が好きですよ。

 きっと色々な苦労や、葛藤を貴方に与えてしまっているとは思っているんです……。

 でも貴方は兄のそういう物と向き合って、戦って下さってる。

 嫌だと見放したりしない。

 それが嬉しいから」


「…………少しだけ、逃げ出したくなってしまいました」


 陸議りくぎが吐露したので、司馬孚は微笑った。

 陸議の身体を、そっと抱きしめる。


「むしろ今まで、そう思われなかったことの方が私は驚きですよ」


 なんでもないことなのだと、司馬孚の穏やかな声が伝えてくれる。

 彼の胸に耳を押し当て、心臓の音を聞いていた。

 落ち着いている。



「ああいう方なので、側にいると日々が戦いだと思います。

 逃げ出したくなったり、嫌だと思うことがあっても、

 全然いいのです。

 それは兄上に対しての感情の一つでしかない。

 貴方は兄の側で辛いことがあっても今まで逃げ出さず、一緒にいて下さった。

 今も、いて下さる。

 そうであることが全てです。

 貴方以外の人は、全て去って行きましたから。


 ……でも忘れないで下さい。伯言さま。

 

 貴方が真剣に、兄に付き合えないと思ったら、そうして下さっていいのです。

 兄の怒りや、失望を、決して恐れないで。

 側から離れたいと貴方が本当の心で願われるなら、いつでも私がそれを叶えて差し上げます。

 でも、きっと貴方が心の底から真剣にそう願えば、兄は認めると思います。

 あの人にとって何よりも大切なのは、

 真剣に相手が自分と相対してるかどうかなのです。


 それが真実の心だと理解出来たら……きっと無理に側に縛り付けたりはしない方です」



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