EP45 潔く

 頭のなかを空白で塗りつぶすみたいに、私はドライヤーのスイッチを入れた。温風が耳の後ろを撫で、毛先がふわりと踊る。


 無心、のつもり――それでも瞼の裏には、湯気の向こうで見た彼の輪郭が、消えない。


 濡れた皮膚の上を、落ちきらない雫が銀の糸になって走っていた。肩から背にかけて盛り上がる筋肉は、呼吸に合わせてゆっくり膨らみ沈む。


 前腕に薄く浮く血管は、水面に投げた糸みたいに手首へ向かってすっと細る。喉仏がごくりと動くたび、そこにだけ影が瞬いて、視線が吸い寄せられる。


 そして――白いタオルというベールの向こう側。私には持ち得ない彼の身体のが、存在だけで熱を放っていた。


 好奇心と、男としての魅力に惹かれる気持ち。その二つが絡み合って、からだの奥に小さな渦をつくる。


 ふふ。これでは、理性を剥がされたのがどちらなのか、わかったものではありませんね。


 冷静になろうと温風を強めるのに、風の熱がむしろ体の内側の温度を押し上げていく。毛先が乾き、指が軽く通るようになるまで、私は風の音だけを聞いていた。



     * * *



 髪が乾いたところで、私は水着をほどき、タオルで手早く水気を拭う。下着を身に付け、持参のパジャマに腕を通す。


 サメの顔がフードになった、どこかの水族館で買ったお気に入り。鏡に映る自分は、さっきまでの水着姿が嘘みたいに、ふわふわと間の抜けた可笑しさがある。


 けれど脳裏に浮かぶのは、昨夜のモコモコの方のパジャマをもう一度見たいと言いそうな彼の顔。


 ……もしかしたら、そっちの方が好みだったかもしれない。


 旅行前、ツカサや真夏に連れ出された買い出しのとき、パジャマまで気を回しておけばよかった――今さらの後悔が、フードについた小さなヒレを指先でいじる癖を呼び戻す。


 スマートフォンで時刻を確かめると、二十時四十五分。


 ……体感では数十分くらいしか経っていないけれど――楽しい時間は、なんとやらというやつですかね。


 そろそろ真夏も大浴場から戻ってくる頃合い――彼が身体を洗い終えたら、お別れ、でしょうか。


 胸の奥に、涼しい風が差し込むみたいな寂しさが、ほんの少し。


 そのとき、メッセージアプリのアイコンに赤い丸。


 こんな時間に誰だろうか――と親指で開く。

 差出人は真夏だった。


『葵ちゃん! 色々あって他の子の部屋で寝ることになったの、ごめんね』


 指先が止まる。続けて、もう一通。


『たぶん佐山くんも、色々あって帰る部屋がないと思うから、今晩は一緒に過ごしてね! 良い報告、期待してるね♪』


 ……色々って、何ですか。


 最後の音符が、妙に無邪気で、妙に悪辣だ。


 嵌められた、と理解するまでに、一拍もいらなかった。


 ……いつから仕込み始めていたのか。

 ――荷解きを渋ったのは、この布石?


 こめかみに熱が集まり、スマホを握る手に、無用の力がこもる。


 ちょうどそのとき、浴室の扉が開いて、佐山くんが出てきた。濡れた前髪を無造作にかき上げ、バスタオルを腰に巻いたまま、こちらを伺う。


「……どうしたんだ?」


 恐る恐るといった温度で尋ねる彼。

 私はパジャマの袖口を一度握り、息を整える。


「……いえ、なんでもないです」


 まずは、状況確認から――

 呼吸を整えてから、切り出す。


「ところで、佐山くん……二見くんから、何か連絡が来ていたりしませんか?」


「え? なんで急に翔吾の話?」


 訝しむ目つきのまま、お風呂へ入る前に脱ぎ捨てたズボンのポケットからスマホを取り出して、画面をスクロールする。

 長文らしく、眉根を寄せて画面を追う瞳が、何度も行き戻りする。


「……ま、まじ?」


「どうしました?」


「これ、見てくれ」


 差し出された画面には、丁寧な文面で『その部屋に留まるように』と指示。理由はもっともらしいが、真偽はどうでもいい。必要なのは、結論。


「なるほど……そういうことですか」


 ――真夏と二見くん。おそらく美島さんも。三方向から蓋をされて、私はその可能性すら詰め切れていなかった。


 そこまで想像が及ばなかった自分の浅さに、舌打ちが喉の奥に貼り付いた。


「……あのさ、なんか……怒ってる?」


 またしても恐る恐る問う声。

 私の顔に、出てしまっていたのだろう。彼は悪くない。悪いのは……私の浅慮さ。


「……いえ、こちらの話ですので、なんでもありません」


 沈黙が薄く広がる。


 ――ここから彼を無理やり帰すのは、現実的ではない。


 覚悟――今夜共に過ごすそれを決めるしかない。


 私は息を整え、正面から告げた。


「実は……同様の連絡を、私も受けました」


「え? 鷹宮も?」


「……はい。ですので、今この部屋を出るのは得策ではありません。ほとぼりが冷めるまで、こちらに居てください」


「で、でも、小鳥遊が戻ってくるんじゃ——」


 戻ってきませんよ、たぶん。――この状況を作った本人なんですから。


 そう言いかけて、飲み込む。


「美島さんが気を利かせてくれたようで、今、小鳥遊さんは彼女の部屋にいるそうです」


 本当かどうかはわからない。けれど少なくとも、彼女が絡んでいることだけは確かなのだから、説明としては十分だろう。


「というわけで、暫くこの部屋にいても大丈夫です。いつまで厳戒態勢が続くかは不明ですが……少なくとも早朝までは続かないでしょうから」


「そ、早朝!?」


 素っ頓狂な声。私も内心、同じ顔をしているのかもしれない。


「ってことは……一晩中?」


「ええ」


 私は肩をすくめ、苦笑をひとつだけこぼす。

 予定は崩された。けれど、お別れの時刻も、同時に延びた。


「今日は……こちらに泊まっていってください」


 嵌められたならば、潔くそれを利用してやろう――そう強く思ったのだった。

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