EP46 彼ならば
そうと決まればまずは段取りだ。
「とりあえず、髪を乾かして服を着てはいかがですか?」
ドライヤーを手渡すと、彼はなぜか思案顔のまま、私の手元を見つめて受け取らない。
「……? どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもない……」
慌ててドライヤーを受け取った彼は、脱衣所の椅子へ腰を下ろし、ぶぉ、と音を立てて髪を乾かし始めた。短い髪はみるみる整っていく。
早く乾くは羨ましいですね――そんなことを思いながら、私は寝室へ戻る。
二つ並んだベッドに目をやる。
どちらか一方を彼に……。
一瞬、真夏が転がっていた跡地を彼が使う絵が脳裏に浮かび、胸の奥がざらりとした。
……やめよう。
私は真夏側へ拠点を移し、元々自分用にしていたベッドを彼に空ける。枕を入れ替え、シーツの皺を手の甲で伸ばす。
ふぅ、と息を吐いたところで、不意に彼がパジャマを持っていない可能性に思い至った。
泊まる想定があるはずもなく、手元にあるのは日中の服だけ。備え付けの寝巻きは女子用でサイズが合わない。
そういえば。明日のパジャマ用に、オーバーサイズのスウェットを入れておいたはず。メンズのM、これなら――。
ドライヤーの音が止む。脱衣所を覗くと、案の定、彼は着替えに困った顔で洗面台の前に立ち尽くしていた。着てきたTシャツへ手を伸ばそうとするのを、言葉で止める。
「それ、今日ずっと着ていた服ですよね? それを着たらお風呂に入った意味がなくなりません?」
「……寝巻きなんか持ってきてねぇんだから、仕方ないだろ」
――ですよね。私はバッグからグレーのスウェット上下を取り出す。
いつもは上だけをワンピースのように着るから、下は置いていこうか迷った――けれど、持ってきてよかった。
「私の服の中に、オーバーサイズのスウェットがありますので、それを貸します。多分、サイズも問題ないはずです」
差し出すと、彼は受け取る寸前で、ひょいと目を泳がせた。
「……いいのかよ、俺が着ても」
「構いませんよ」
女子の服を着ることへの、ささやかな抵抗なのだろうか――だとしたら可愛い。
徹も同じような抵抗をしている場面を見たことがあるが、男の子の本質は、いくつになってもあまり変わらないのかもしれない。
そんなことを考えて、笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「それとも……佐山くんが着ると、まずいことがあるんですか?」
「べ、別に何にもねぇよ!!」
耳まで赤くして受け取ると、私に背を向けていそいそと袖を通す。
裾や袖丈は寸足らずというほどでは無いけれど、気持ち短いように見えた。
紐を結び直す指がぎこちなくて、その借り物感がくすぐったい。
私の匂いがほんのり移ったスウェットが、彼の体温でふくらみ、形を変える。
――彼シャツに憧れる話はよく聞くけれど、逆パターンも悪くない。
自分のものが、彼の生活の一部みたいに馴染んでいくのを見るのは、不意打ちの幸福感がある。
「……どうですか? サイズは」
「あ、ああ、ちょうどいい」
「……よかったです」
寝室へ移動し、それぞれのベッドに腰を下ろす。柔らかなマットレスが体温を吸い、間に置かれたテーブルの上でミネラルウォーターが静かに汗をかいている。
急ごしらえのお泊まり。準備も、心構えも、シミュレーションもゼロ。
何を、どう――考えが空回りしかけたところで、彼が口火を切った。
「……あのさ、鷹宮と小鳥遊って、仲良かったりするのか?」
不意打ち気味の問いかけ。意図を拾うため、問い返す。
「……どうしてそう思ったんですか?」
「いや、奈良でも同じ部屋だったし、今日の自由行動でも二人で迷子になってたし、ここでも相部屋だろ? 普通に考えれば、それなりの仲って思うだろ」
さすが陽側の人、周辺の温度には敏感だ。私は小さく肩を竦める。
「……意外と鋭いですね」
「……お前が俺をどんなふうに思ってんのか、よくわかったよ」
拗ねた気配が一瞬だけ見えて、目が合う。彼の目が、小さく笑ってすぐ真顔へ戻った。
「それで、どうなんだ?」
学校では伏せてきたけれど、彼に隠す理由はない。むしろ、彼は受け止め方も知っている人だ。
「そうですね……佐山くんと二見くんの関係性と同じ、になりますね」
「それって……つまり——」
「はい。いわゆる幼なじみです」
言葉が空気に解ける一瞬、心臓が一拍、速く打った。鼓動の波が耳の裏で弾け、すぐ引いていく。
「家も隣同士で、小さい頃から姉妹みたいに育ちました」
「え、マジで?」
素直な驚きが灯る。続けて、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せる。
「でも、学校じゃあんまり仲良さそうに見えないけど」
「それは……」
彼になら、話せる。彼もまた、誰かの隣として見られてきた時間があるから。
――そんな予感が背中を押す。
「昔は、普通に仲が良かったんです。でも、小学校の高学年くらいから、小鳥遊さんの容姿が抜きん出始めて——それで、彼女目当ての男子が、私に接触してくることが増えました」
喉の奥に、古い砂のような違和感がざり、と残る。
「『小鳥遊さんと仲いいんでしょ? 紹介してよ』とか、『小鳥遊さんの好きなものって何?』とか……そういうのが続いて」
「ああ……」
短い相槌なのに、体温がある。経験から来る実感の重さが、言葉に芯を与えているのが分かる。それだけで、胸のどこかがほどけた。
「それが嫌で、学校では距離を置くようになりました。でも、プライベートでは今もそれなりに仲が良いです。家の行き来もしますし」
「そうだったのか……小鳥遊の方は、どう思ってるんだ? そういう状況を」
「彼女は……まぁ、優しいですから」
本質的に。たまに突拍子もなく暴走するけれど、芯にあるのは、誰かに向けた柔らかい気持ちだ。私が「距離を置きたい」と言ったとき、彼女は一度も責めなかった。むしろ、私の面倒くささを笑って、受け止めてくれた。
その説明に合わせるように、彼の視線の色が、少し柔らぐ。きつい光が引き、代わりに穏やかな灯りが宿るみたいに。
窓の外で、湾の明かりが風に揺れるのが見えた。私たちの間の静けさは、もう気まずさではなく、話を続けられる余白へと、少しずつ変わっていった。
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