EP44 フェティッシュ
ホテルのボトルと、私の持参した小さな詰め替えボトルを並べて見比べる。無機質に透きとおるホテルのラベルと、深い群青のキャップ――私が選んだのは後者だった。
……彼に、私の匂いを纏わせたかったのだと思う。まるでマーキングする犬や猫みたい。
自嘲しながらも指は迷いなくノズルを押し、掌に落ちた半透明のジェルを体温で温めていく。柑橘と白檀が溶け合った、いつもの香りがふっと立った。
視線を上げると、佐山くんはバスチェアに腰を落としたまま、耳まで赤い。表情はゆっくりと雲の影が流れるみたいにくるくる変わって、落ち着かない指先が膝の上で泳いでいる。
いったい、何を考えているのやら。
「……それでは、始めさせていただきますね」
努めて平静に出した声は、湯気に包まれて角が取れ、甘さを含んだ。こくり、と彼の喉が動くのを見届けて、私はそっと頭に手を置く。
――男の子の髪。
絹糸とは言えない。けれど硬さの芯に、雨の日の草のような柔らかさが潜んでいて、むしろ新鮮だ。
指の腹で円を描くように泡を立て、頂点から生え際、そして首筋へ。泡の白が少しずつ増えて、髪全体を雪で包むみたいに染めていく。軽く、甘噛みみたいに爪先で頭皮を掻くと――
「っ……」
肩が小さく跳ねる。その反応が可愛くて、ふふ、と喉の奥が温かくなる。
間を置いて、もう一度、もう一度。ピクリ、と律儀に返る反射が癖になりそうだ。
「お加減はいかがですか?」
耳元に口を寄せ、息で耳たぶを撫でる。湯気とは違う熱が彼の首筋に宿り、胸の奥で吐息がほどけて溢れた。理性の殻に、髪を梳く指先ほどの細い亀裂が入った音がする。
……もっと、見せて。
私は一歩、距離を詰める。背中に私の胸元が、濡れた布越しにそっと触れる。
水面を切るような浅い接触でも、境目ははっきりとわかる。薄いプルシャンブルーの水着が水を吸って、肌に吸い付いているのを、自分でも意識してしまう。鼓動が布越しに伝わらないか、少し不安になる――けれど、同時に彼の心臓も速くなって、背骨越しに拍が合うのが分かった。
「佐山くん? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ」
「体が少し震えているようですが……寒いですか?」
もし本当に寒いなら――もっと密着して、体温ごと包んであげる。鎖骨の下で呼吸を深くして、背中に沿わせた胸の柔らかい起伏を、彼の広い肩甲へゆっくり預ける。耳の後ろに落ちた雫を唇で拾ってしまう衝動を、辛うじて飲み込む。
「いや、そういうわけじゃ――」
「ふふ、それはよかったです。それでは、流しますね」
シャワーの角度を落として、額からこめかみ、うなじへ。泡が白い筋になって肌を走り、首筋の骨の窪みで一瞬だけ足を止め、鎖骨の谷へ消えていく。指で目元をそっと庇いながら、余さず流す。
香りが、彼の体温で開いていくのが分かる。湯気の中に、私の気配が混ざる。
――刻印、完了。
思わず口の端が上がった。
「次はコンディショナーですね」
さらに、深く。毛先を中心に、糸を撚り合わせるみたいに丁寧に揉みこむ。指先をすべらせるたび、艶の膜が増えていく。時折、肩や二の腕に私の身体が触れるのを、わざと忘れずに。
彼の右手が、何かを鷲掴もうとしてふわりと持ち上がる。けれど左手がすぐにその手首を抑え、「ダメだ」と理性の印を押す。右と左の小さな綱引きに、思わず喉の奥で笑いが零れそうになる。
「はい、流しますよ」
再びシャワー。前髪を指で梳き上げる彼の仕草が、思いのほか色っぽい。滴が顎の先で珠になって落ち、濡れた睫毛が一瞬だけ影を濃くする。
私は視線を、するりと喉元から胸、そして腹へ滑らせる。はっきりと刻まれた筋の起伏。僧帽筋が肩の付け根で盛り上がり、肩甲骨の稜線が薄い皮膚の下で呼吸と一緒に動く。上腕二頭筋は丸みを帯びた硬度で、前腕には細い血管が浅く浮き、手首へ向かって川の分岐のように消えていく。
腹直筋は思ったより細かく割れていて、腹斜筋が脇腹から斜めに走る一本の綱みたいに太腿の付け根へ消える――その先、白いタオルの結び目が
……少しだけ、触れたい。
気づけばボディソープを手に取っていた。掌で泡を育て、背中へそっと置く。僧帽筋の盛り上がりに指を沿わせ、肩の内側で円を描き、肩甲骨の谷をゆっくり下る。
力を込めすぎず、でも形を確かめるように。滑らかな泡の膜と、硬い筋肉の反発が、交互に指先へ返ってくる。
上腕は外側から内側へ、肘の窪みでふわりと一息置いて、前腕に沿って手首へ。手の甲の腱をなぞり返し、今度は胸郭の縁へ手を戻して、肋骨のリズムを読む。
腹部へ下り、板チョコみたいな段差の一つひとつに、泡で印を押していく。腹斜筋の縄は、思っていたよりも熱い。指が辿るたびに、彼の呼吸がわずかに鈍り、そのたびに泡の山が微かに震える。
境界線――タオルの縁。そこへ触れる前に、指先が一拍ためらって、熱を掬い上げるみたいにふわりと浮く。
皮膚の下で流れる体温が、掌に集まり、そこから全身へ逆流してくる。体の中心に、火種みたいな熱がぎゅっと集まるのが分かった。
――その刹那。
「か、体は自分でやるから!! 大丈夫だ!! 自分でできる!」
佐山くんがバスチェアから跳ね起きた。湯がはね、泡が肩から滑り落ちる。私は、肩に乗せかけた手をそっと戻し、息を一つ。
残念、という安堵。不思議と両方が胸に残る。
「……それはよかったです。さすがに私も、それに触れるのは心の準備が必要だなと思っていたので」
半分は本音。半分は嘘。――止められなければ、私はどこまで手を伸ばしていたのだろう。
これ以上は、よくない。熱が言葉を曇らせる前に、幕を引く。
「では、私は先に出ていますので」
できるだけ静かに言って、タオルを手に取る。肩から胸元、腰へ。水を吸って重くなった水着の線を、布で隠していく。肌に吸い付いた熱をタオルへ移すみたいに押し当てると、指先が微かに震えた。
背中に視線を感じる。振り向かない。湯気の厚みを一枚まとって、脱衣所へ足を運ぶ。
戸口で一度だけ息を整え、浴室との境の扉をゆっくり閉める。熱と匂いと、彼の鼓動の余韻だけが、薄い戸に指先を通して指紋のように残った。
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