EP43 ご褒美のお返し
シャンプーの泡が指の腹でほどけ、白い糸になって肩先を伝って落ちていく。最後のぬめりが消えたのを確かめると、佐山くんはシャワーを止め、厚手のタオルで私の髪の水気をそっと吸い取ってくれた。
こすらない。包んで、押して、離す——その繰り返し。うなじの生え際、耳の後ろ、こめかみへと手順よく移り、毛束はタオルの中でふわりと温度を取り戻す。耳たぶに指先がかすめた刹那、背筋の奥を小さく電気が走った。
このこなれた手つきは、妹さんにしていた所作の延長なのだろう。少しだけ、嫉妬に似たざらつきが胸を撫でる。
――その手を、今は私だけのために動かしてほしい。そんな我儘が舌の裏で形になる。
「……トリートメントもお願いしますね」
「はいはい、わかったよ」
気怠げな声音なのに、嫌がる素振りはひとかけらもない。彼はポンプを押し、手のひらでとろりとしたクリームを温めると、毛先から丁寧に馴染ませはじめた。
指が櫛になって髪を梳くたび、繊維が一本ずつ整列していく感触が頭皮へ伝わる。泡とは違う、重さを含んだ滑りが心地よい。
――彼はどう思っているのだろうか。
ふと浮かぶ、どうしようもなく私的な好奇心。
真夏のような長く艶のある髪が好みだろうか。あるいは、美島さんみたいに明るく軽やかに巻いた髪。
そんな益体もない問いが脳裏をかすめた瞬間、彼が小さく、独り言みたいにこぼす。
「……本当に綺麗で、触ってるだけで癒されるな……」
っ――!
心臓が、ひと跳ねした。心中を読まれたかのような言葉。反射的に振り返りかけて、ぎりぎりのところで視線だけを送る。彼はまるで何も言っていない、という顔。
くっ……一本取られましたね。
頬の内側が熱くなるのを、唇を噛んでやり過ごそうとしたところで、温いシャワーが頭上からやわらかく降りかかってくる。泡の縁が白い糸になって首筋を伝い、鎖骨のくぼみでちいさく弾ける。流れ切るまでの沈黙が、やけに心地よい。
「――はい、これで完了っと」
「……ありがとうございました。人に洗ってもらうというのも、なかなか良いものですね」
素直に礼を言う。けれど、先ほどの一手に対するお返しも必要だ。口の端にいたずらの気配を乗せて、二の句をつなぐ。
「――それでは、次は身体をお願いします」
「そ、それだけは勘弁してください!」
ばしゃっと床に水音。タイルの上に土下座してまで拒むという、ある意味で誠実な全力の拒否。濡れた額に湯気が集まり、睫毛が重たそうに震える。
「もう、色々いっぱいいっぱいなんだよ!」
真っ直ぐすぎる悲鳴が可笑しくて、可愛くて、頬の内側の熱が別の色に変わる。
……もっと見たい。
「何がいっぱいいっぱいなんですか?」
小首を傾げて覗きこむ。彼は視線の逃がし場所を探すみたいに瞬きを繰り返し――
「それは……その……」
「具体的に教えてください」
そう囁きながら、一歩近づく。濡れたタイルに膝がかすめ、彼の吐息の熱が頬へ触れる。体の輪郭が触れそうで触れない、境目ぎりぎりのところまで寄ると、湯気が二人の間でひとつに混ざった。
肩から落ちた水滴が、鎖骨の窪みを辿って溶ける音まで聞かせるつもりで、囁く。
「私の身体を洗うと、何が、どうなってしまうんですか?」
問いを重ねながら、想像してしまう。彼の理性がぱちん、と弾ける音。頬の熱、呼吸の荒さ、視線の迷子。勢いで抱き寄せられ、湯の温度と彼の温度が境目を失う光景――そこまで思い描いたところで、私は内側からさらに熱を帯びた。
「お前、わかって聞いてるだろ!? 頼むから勘弁してくれよぉ」
縋るような声に、胸の底でひやりと甘い快感が鳴る。私は肩をすくめ、溜飲をそっと下ろした。
「……全く、仕方ないですね。それではこれくらいにしておきます。まぁ、身体は佐山くんが来る前に洗い終えていましたしね」
「はぁ?」
不満の声と顔。私は肩をすくめる。
「シャワーの音、聞こえてましたよね?」
その瞬間、彼の表情に理解の色が走り、次いで脱力。ことり、と床に座り込む。
「この、やろう……」
「それでは、そろそろ出ましょうか」
私が言うと、ほっとした笑いが漏れる。
――む。そこで安堵されるのは、心外。
なら、甘い餌を。
「……あ、でもせっかくなので」
いたずらの種を含ませて、二の句を落とす。
「佐山くんも洗っていってはいかがですか? 戻ってお風呂入るのも二度手間でしょうし」
「い、いや――も、戻ってからゆっくり部屋で入るから、さ」
そう言って、頑なに首を振る佐山くん。
……しぶといですね。
「そんなこと言わないでください、ねぇ……?」
腰を落として目線を合わせ、甘さを混ぜてお願いする。視線を受け止めた彼のまぶたが、わずかに震える。
「いや、でも――」
仕方ない。最後の一押し。
「あ、でしたらこれまでのことを――」
「洗わせていただきます!」
即答。挙手。態度の急転に、思わず笑いが喉の奥で弾けた。
「洗いたいなと思っていたんです! ずっと!」
「それはよかったです」
ちゃんと、ご褒美を受け取れる人は――好きですよ。
「それでは、私が洗ってあげますので、こちらに座ってください」
「…………は?」
きれいに固まる。時間が一拍、止まったみたい。
「もう、もったいぶらないでください」
私は彼の手を取る。濡れた掌同士が吸い寄せ合って、ぎゅっと握ると、指と指の隙間に温度が絡む。
力を逃がすようにほんの少し引くと、素直に立ち上がる。
「こちらへ」
バスチェアに導き、軽く肩を押して座らせる。シャンプーボトルを手に取る私の手元を、彼は目を丸くして追っている。湯気の幕がふたりの間を柔らかく隔て、逃げ場のない近さだけを残す。
「――始めますね」
声を落として囁くと、彼は小さく息を呑んだ。
触れる前から、掌が彼の鼓動に触れている気がした。
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