第31話 小悪魔と3つの質問

 葵は浴槽の縁から腰を上げると、ゆっくりと浴槽に足を入れた。


「ん、良いお湯です……」


 小さく息を漏らしながら、慎重に湯船に身を沈めていく。紺色の水着が、お湯に濡れてさらに肌に密着した。


「さぁ、佐山くんも、どうぞ」


 葵が浴槽の奥側に腰を下ろして、手招きをした。


 俺は覚悟を決めて、タオルを腰に巻いたまま浴槽に入った。葵が口にしたように、ちょうど良いお湯が体を包んで、緊張していた筋肉が少しほぐれる。


 でも、リラックスなんてできるわけがない。


 高級なホテルなだけあって、浴槽はそれほど狭くはないけれど、2人で入ると結構な距離感になる。葵と向かい合うように座ると、足がすぐそこまで届きそうな距離だった。


 葵の方に目を向けると——


 いつものニンマリ笑顔があった。そして、水面に浮かぶようにして、彼女の豊かな胸の膨らみが見え隠れしている。水着越しとはいえ、その柔らかそうな形が、お湯の揺らめきと一緒に俺の視界に入ってくる。


 俺は目を逸らさなければという理性と、刮目せよという本能の狭間で激闘を繰り広げていた。


「さて……」


 葵が口を開いた。


「どこからお話ししましょうか」


 その声は、いつものように落ち着いていて、それでいてどこか楽しそうだった。


「私が全て話してしまうというのも面白くないので……佐山くんの質問に答える形式にしましょうか」


 葵は小首をかしげた。


「3つだけ、質問をしていいですよ。それには正直にお答えします」


 3つだけ? 正直に?


 なんだか、葵のペースに巻き込まれている気がするけど、そもそも今の俺に選択肢はない。


 そのとき、何かが俺の足に触れた。


 ――葵の足だった。


 素足が、俺の足にそっと触れている。その柔らかくて滑らかな感触に、俺の心臓が跳ね上がった。


「それでは……1つ目の質問は、何にしますか?」


 葵は何事もないように聞いてくる。でも、足は俺の足に触れたままだ。


 俺は頭を整理しようとした。聞きたいことは山ほどある。でも、3つしかチャンスがない。


「ここは……誰の部屋なんだ?」


 いくつか思いついた疑問の中で、最も大切なことから聞いてみた。


「もちろん、小鳥遊さんの部屋ですよ」


 葵はあっさりと答えた。


「ただし――」


 葵の笑顔が少し深くなった。


「私の部屋でもあります。つまり、小鳥遊さんと私はルームメイトなんです」


 ルームメイト——そうか、だから葵がここにいるのか。でも、それなら——


 俺が思考を巡らせていると、触れているだけだった葵の足が俺の足に絡みついてきた。


 すべすべとした、絹のような肌の感触。女の子の足って、こんなに柔らかいのか。


「っ……!」


 俺は思わず声を漏らしそうになって、慌てて口を押さえた。


「2つ目の質問は?」


 葵は俺の動揺を楽しむように、足をさらに絡めてくる。


「た、小鳥遊は……どこにいるんだ?」


 俺は、少し震え声で2つ目の質問を投げかけた。


「今は、大浴場にいると思いますよ。取り巻きたちと楽しく入浴していると思います」


 葵の答えに、俺は愕然とした。


 大浴場? でも、美島からの情報では、小鳥遊は部屋で入浴するはずじゃ——


 つまり、俺は誤った情報を掴まされていたということか?


「どうかしましたか? なにやら顔が百面相のようですけど」


 葵がどこか心配そうな顔をしてみせる。でも、その目は明らかにニヤついていた。


「では、最後の質問はどうしますか?」


 最後の質問——


 俺の頭の中で、色々な疑問がぐるぐると回った。なんで俺はここにいる? なんで葵が待っていた? なんで美島の情報が間違っていた?


 そして、葵の足がさらに俺の足に絡みついてくる。太ももにまで触れてきて、俺の思考は完全に混乱した。


「なんで……」


 俺は必死に頭を振って、言葉を絞り出した。


「なんで、お前がここにいるんだ?」


「そうですね……」


 葵は少し間を置いて、逆に俺に質問を投げかけてきた。


「その質問に答えるためには、逆に質問させていただきます。なぜ、佐山くんはここへ来たのですか?」


「そ、それは……」


 俺は答えに窮した。


「小鳥遊が……部屋で風呂に入るって聞いたから……」


「それは誰からですか?」


 葵の目が、鋭く俺を見つめた。


 美島の名前を出すわけにはいかない。翔吾のことも言えない。あいつらにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないんだ。


「それは……その……」


 俺は言葉を濁した。


「では――」


 葵の笑顔が、さらに深くなった。


「もしその情報を佐山くんに与えた方が……実は私の協力者で、嘘の情報を伝えてもらったとしたら——」


 その言葉を聞いて、俺はハッとした。


「ま、まさか——」


「はい、そのまさかです」


 葵はニッコリと笑った。


 ――やられた!


 俺はずっと、こいつの掌の上で良いように転がされていただけだったのか。

 ――美島も葵の協力者だったのか?


「ですので、最初の佐山くんの質問にお答えすると——」


 葵は絡めていた足をゆっくりとほどきながら、俺の足をツンと突っついた。


「貴方がここに来ることがわかっていたので、待っていてあげたということです」


 完璧だった。何もかも葵の方が上手だった。


「じ、じゃあ勝負は……」


「もちろん、私の勝ちになりますね」


 葵は満足そうに言った。


「これで3勝目です」


 3勝目——京都、奈良、そして大阪。俺は一度も勝てていない。


 悔しい。でも、これだけ完璧に負けたとなると、どこか清々しさも感じる。


「さて、それでは今回も——」


 葵が立ち上がった。水が体を伝って流れ落ちて、水着が肌にぴったりと張り付いている。


「勝者としてのご褒美を頂いてもいいですか?」


 葵がニンマリ笑顔で、湯船の中を俺の方に向かってくる。


 近い、近い、近すぎる!


「わかった、わかったから離れろって!」


 俺は慌てて後ずさりしようとしたけど、浴槽の壁に背中がぶつかった。


 逃げ場がない。


 葵の顔が、俺の顔のすぐ近くまで来る。その瞳が、俺を見つめている。


 今度は何なんだ?


 今回は……今回は水着姿で、湯船の中で——


 俺の心臓が、爆発しそうなほど激しく鳴り始めた。

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