第32話 小悪魔の要求
葵の顔が俺の目の前にある。
息遣いまで感じられるほど近い距離で、俺を見つめている。
「ご褒美として――」
葵は小首をかしげて、ニンマリと笑った。
「髪と体を洗うのを手伝ってもらおうと思います」
「ちょっ! そ、それはさすがに——」
俺は慌てて首を振った。髪はともかく、体って——そんなの色々と無理に決まってる。
「……嫌、ですか?」
葵の笑顔が、少しだけ冷たくなった。
「――それでしたら、やはり先生にお話ししましょうか。『変質者が——』」
「わ、わかった! わかったから!」
俺は慌てて手を上げた。この脅し文句には、もう逆らえない。
「よかったです。そしたら……まずはシャンプーからお願いします」
葵は満足そうに微笑むと、俺の前に背中を向けて座り直した。
艶やかな黒髪が、俺の目の前にある。
俺は震える手で、シャンプーボトルを手に取った。
* * *
小柄で、肩までの黒髪はすでにしっとり濡れていて、湯気に包まれながら首筋に沿って滴る水滴がやけに目につく。
「……本当にいいんだな?」
「はい、こちらからお願いしていることですので」
手に取ったシャンプーを泡立てると、指先がぬるりとした泡に包まれる。
その泡をそっと彼女の頭に乗せ、ゆっくりと指を滑らせる。
――なんて柔らかいんだ。
髪の一本一本がきめ細やかで、指の間をすり抜けていく感触がたまらない。まるで絹糸のようだ。
「佐山くん……」
葵の声が、少し甘く響いた。その拍子に、ふわっとシャンプーの甘い香りが鼻をくすぐった。
「もう少し強くても大丈夫ですよ」
俺は言われた通り、少し力を込めて髪を洗った。指の腹で、頭皮をマッサージするように。
「んっ……」
葵が小さく息を漏らす。その声が、妙に艶っぽくて――俺の心臓は間違いなくシャワーよりも激しい勢いで脈打っていた。
「佐山くん、意外と上手ですね」
「……まあ、昔は妹によくやってあげてたからな」
俺は少し照れながら答えた。
「妹さんがいらっしゃるんですね」
「ああ、今は中学生で、思春期真っ盛りだからないけど、小学生の頃はよく『お兄ちゃん、髪洗って』って言われたもんだ」
「……ふふ、たしかに、佐山くんはどことなく、お兄ちゃんっぽいですね」
葵が振り返って笑顔を見せた。その表情が、いつもの小悪魔っぽさとは違って、またしても新たな一面を見つけたような気になった。
「鷹宮は兄弟いるのか?」
「はい、歳の離れた弟と……」
そこまで言って、鏡に写る葵の顔がやけに顰めっ面になった。
「……不本意ながら、姉と呼べる存在がいます」
「不本意ながらって何だよ」
俺は思わず笑ってしまった。
「……あまり姉だと思いたくない人なので」
「……ど、どんな人なんだ?」
珍しく自身のことを話す葵に、興味本位で問いかける。
「そうですね……良く言えば、恋愛脳の阿婆擦れ。悪く言えば――ビッ◯ですね」
「……お前、それ良く言ってねぇだろ」
「ええ、まぁ――姉ではなくて人としては……そこまで悪い人ではないんですけどね」
葵の表情が、少し柔らかくなった。過激な発言に面食らったが、家族の話をしている時の彼女は、普段とはまた違って見えた。
* * *
「じゃあ、流すぞ」
俺はシャワーのノズルを手に取り、温度を確かめてから彼女の頭上にお湯をそっと当てた。
お湯が流れるたび、泡が白い筋を描きながら肩を伝い、細い首筋をつたって消えていく。
……視線を上手く逸らさないと、妙に意識してしまう。
「熱くないか?」
「はい、ちょうど良い温度です」
そう答えながら、彼女は目を閉じて、お湯を受け入れるみたいにおとなしくしている。
……修学旅行前は、これくらいおとなしいと思ってたんだけどな。
そんなことをしみじみと思いながらシャンプーを流しきると、タオルで水気をとり、トリートメントを手に取った。
「トリートメントもお願いしますね」
「はいはい、わかったよ」
今度は髪の毛先を中心に、丁寧にトリートメントを馴染ませていく。葵の髪は本当に綺麗で、触っているだけで癒されるようだ。
「――はい、これで完了っと」
俺がトリートメントを洗い流すと、葵は振り返った。
「……ありがとうございました。人に洗ってもらうというのも、なかなか良いものですね」
その笑顔は、いつものニンマリ笑顔とは違って、心から嬉しそうだった。
でも、次の瞬間——
「――それでは、次は身体をお願いします」
「そ、それだけは勘弁してください!」
俺は慌てて土下座した。
「もう、色々いっぱいいっぱいなんだよ!」
「何がいっぱいいっぱいなんですか?」
葵が首をかしげて聞いてくる。その目が、明らかに楽しそうだ。
「それは……その……」
俺は言葉を濁した。そんなこと、言えるわけがない。
「具体的に教えてください」
葵が一歩近づいてくる。
「私の身体を洗うと、何が、どうなってしまうんですか?」
「お前、わかって聞いてるだろ!?」
俺は必死に抗議した。
「頼むから勘弁してくれよぉ」
葵は俺の様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「……全く、仕方ないですね。それではこれくらいにしておきます。まぁ、身体は佐山くんが来る前に洗い終えていましたしね」
……はぁ?
「シャワーの音、聞こえてましたよね?」
そういえば——俺が覗き見をした時、シャワーの音がしていた。あれは、葵が体を洗っている音だったのか。
「この、やろう……」
俺は脱力した。相変わらずの小悪魔っぷりだ。
「それでは、そろそろ出ましょうか」
葵がそう言った瞬間、俺はホッとした。ようやく、この緊張感から解放される——
「……あ、でもせっかくなので」
そんなことを一瞬でも考えたことがいけなかったのか、彼女が、いつものニンマリ笑顔を携えて振り返った。
「佐山くんも洗っていってはいかがですか? 戻ってお風呂入るのも二度手間でしょうし」
「い、いや――」
俺は慌てて首を振った。
「も、戻ってからゆっくり部屋で入るから、さ」
「そんなこと言わないでください、ねぇ……」
葵の声が、少し甘く響いた。その目が、俺を見つめている。
「いや、でも——」
俺がごねようとした時、葵が口を開いた。
「あ、でしたらこれまでのことを——」
その言葉を聞いた瞬間、俺は慌てて手を上げた。
「洗わせていただきます!」
俺は大声で叫んだ。
「洗いたいなと思っていたんです! ずっと!」
「それはよかったです」
葵は満足そうに微笑んだ。
「それでは、私が洗ってあげますので、こちらに座ってください」
葵が指差したのは、浴室の隅にある風呂椅子だった。
「…………は?」
俺は葵の言っている意味が、しばらく理解できなかった。
俺が自分で洗うんじゃなくて——葵が俺を洗うって?
風呂椅子を呆然と見つめながら、俺は思った。
また、葵のペースに巻き込まれてしまったのか。
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