第30話 小悪魔は……?
俺は震える手で、静かに浴室のドアを開けた。
ほんの少し——本当にわずかな隙間だけ。
それにしても、葵が妨害に来なかった。
これまでの京都、奈良では、俺の覗き見を先回りして阻止してきたあの小悪魔が、今回は姿を現さない。
それがなんだか拍子抜けというか、逆に不安になるというか。いつものように俺を翻弄してくるんじゃないかと身構えていたのに、肩透かしを食らったような気分だった。
まさか、ついに俺が勝ったのか? あの小悪魔を出し抜いて、先手を取ることができたのか?
だとしたら——ついに、ついに小鳥遊の裸を見ることができるのかもしれない。学年一の美少女、みんなの憧れのマドンナの、誰も見たことのない秘密の姿を。
期待と不安、そして少しの罪悪感が入り混じった複雑な気持ちで、俺はドアの隙間から浴室の中を覗き込んだ。
瞬間、温かく湿った空気が頬に触れた。
モワッとした湯煙が立ち込めていて、中の様子がよく見えない。まるで霧の中にいるようで、人影すらぼんやりとしている。
でも、シャワーの音と熱気が目の前に迫ってきて、俺の期待感と興奮を否応なく強くしていく。
生々しいシャワーの音。ザアアアという水流の音が、浴室の壁に反響している。
ドクドクと心臓が激しく鳴っている。手のひらに汗がにじんで、ドアノブが滑りそうになった。
これは本当に成功するんじゃないか? やったぞ、翔吾! ついに俺は——
そのとき、シャワーの音がピタリと止んだ。
突然の静寂。聞こえるのは、俺の心臓の音と、かすかな水滴の音だけ。
徐々に湯煙が晴れてきて、中の様子が少しずつ、本当に少しずつ見えるようになってくる。まるで霧が晴れるように、ゆっくりと、でも確実に。
人影が——女の子のシルエットが、朧げに見えてきた。
俺は息を止めた。ついに、ついにこの瞬間が——
……あれ?
……なんか背が小さくないか?
小鳥遊って、もっと背が高かったような……すらっとした長身で、それが彼女の美しさの一部だった。
でも、今見えているシルエットは、明らかにもっと小さい。150センチくらいか? 小柄で、どちらかといえば可愛らしい体型に見える。
嫌な予感が、胸の奥から急激に湧き上がってくる。
まさか——まさか、まさか——
浴室の中にいた少女が、湯煙の向こうから、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
その瞬間——
「本当にこんなところまで来るなんて――そんなに裸が見たかったんですか?」
聞き慣れた声。いつもの、どこか挑発的で、それでいて上品な口調。聞き慣れた、小悪魔の声。
湯煙が完全に晴れて、その人物の正体がはっきりと見えた。
黒髪のボブカット。猫のような瞳。いつものニンマリとした笑顔。
そこにいたのは——紛れもなく、鷹宮葵だった。
「な、ななっ!! なっ——!!」
俺は言葉を失った。頭が真っ白になって、何も考えられない。思考が完全に停止している。
なんで? なんで葵がここにいる? 小鳥遊は? どこに行った? どうして? どうして? どうしてこんなことが?
俺の頭の中で、疑問符がぐるぐると回り続ける。
葵は俺の混乱した様子を楽しむように、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。その足音が、濡れた床に小さく響いた。
「お前っ!! ちょっと、待て!!」
俺は慌てて叫んだ。声が裏返りそうになる。
葵が——葵が裸で近づいてくる! どうしよう、どうしよう、これはマズい、本当にマズい!
咄嗟に俺は目をぎゅっと閉じた。まぶたの裏が真っ暗になる。
「あの、何で目を閉じてるんですか?」
葵の声が、すぐ近く——本当にすぐ近くから聞こえてくる。息遣いまで感じられそうなほど近い。
「裸を覗きに来たんじゃないんですか?」
その言葉に、俺の混乱はさらに深くなった。
「そうだけど、そうじゃねぇんだよ!!」
俺は支離滅裂なことを叫んでいた。確かに裸を見に来たけど、でも、こんな形で見たいんじゃなくて――いや、そもそも葵の裸を見ようとしてたわけじゃなくて——
でも、それを正直に言うわけにもいかない。
「……わけがわからないですね」
葵の呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声。
「でも、目を閉じなくても大丈夫ですよ。水着を着ていますので」
「み、水着? な、なんで? お風呂で水着って……」
俺は恐る恐る、片目だけをそっと開けた。
そして——息を呑んだ。
そこにはたしかに、水着を着た葵が立っていた。
紺色のビキニ。シンプルなデザインだけど、それが逆に彼女の体のラインを際立たせている。上下ともに無駄な装飾はなく、でもその分、着用している彼女の美しさが純粋に伝わってくる。
この修学旅行で散々目の当たりにした彼女のスタイルが、今は隠しようもなく目の前にあった。
小柄だけど、バランスの取れた体型。華奢に見えて、でも女性らしい曲線がしっかりとある。白い肌が、浴室の柔らかな照明で薄っすらと輝いて見える。まるで陶器のような滑らかさだ。
そして——もはや特徴とも呼ぶべき彼女の胸の膨らみが、紺色の水着越しでもしっかりとその形と大きさを主張していた。
お風呂で水着。その不自然さが、逆に妙にそそられる。普通なら裸でいるべき場所で水着を着ているという背徳感が、俺の胸をドキドキさせた。
水着の生地が、浴室の湿気で肌に密着している。その様子が、なぜか生々しくて、目を逸らしたくなるような、でも目を逸らしたくないような複雑な気持ちになった。
「そのあたりを全て説明しようと思いますので……」
葵が小首をかしげて、いつものニンマリ笑顔を浮かべた。濡れた髪が、頬にまとわりついている。
「せっかくですから、一緒にお風呂に入りましょうか」
「い、一緒に! そんなことできるわけ——」
俺の声が、また裏返った。一緒にお風呂って、そんな、そんなことが——
「断るなら」
葵の笑顔が、一瞬だけ——本当に一瞬だけ冷たくなった。その変化が、俺の背筋をゾクッとさせる。
「今すぐ廊下に出て、先生を呼ぶだけですけど……。『不審者が女子の部屋に侵入しています』って」
俺は絶句した。喉が渇いて、声が出ない。
確かに、俺は不法侵入をしている。翔吾からもらったカードキーを使って、勝手に女子の部屋に入って、覗き見をしようとしていた。どんな言い訳をしても、完全に俺が悪い。
退学どころか、下手をしたら警察沙汰になるかもしれない。
断る選択肢なんて、最初からなかったんだ。
「俺、水着ないんだけど……」
俺は弱々しく、蚊の鳴くような声で呟いた。
「?」
葵はきょとんとした顔で首をかしげた。その仕草が、妙に可愛く見えてしまう。
「ここはお風呂ですよ? 水着なんて必要ないですよね?」
そう言って、浴室の隅を指差す。
「あ、タオルでしたらあちらにありますよ」
どの口が言ってるんだ、と俺は心の中で突っ込んだ。お前は水着着てるじゃないか。お前が水着で、なんで俺は裸なんだ――
でも、口に出して言うことはできない。今の俺に、葵に文句を言う資格なんてない。
どうすることもできない。
俺は深く息を吸って、覚悟を決めた。
「わ、わかった……」
俺は観念して、着ていた服を脱ぎ、タオルを腰に巻き付けた状態で、ゆっくりと浴室に足を踏み入れた。
温かい湿気が体を包む。浴室の床は滑りやすくて、慎重に歩かないと転びそうだ。
後ろ手でドアを閉めながら、俺は思った。
一体、何がどうなってるんだ?
なんで葵がここにいる? 小鳥遊はどこに行った? そもそも、この部屋は本当に小鳥遊の部屋なのか? そして——なんで俺は、葵と一緒にお風呂に入ることになってるんだ?
頭の中で疑問がぐるぐると回り続ける。でも、答えは出ない。
葵は浴槽の縁に腰かけて、俺の様子を楽しそうに眺めている。その表情は、まるで面白いものを観察している研究者のようだった。
「それでは、ゆっくりお話ししましょうか」
その笑顔は、いつも通りの小悪魔だった。
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