私の光
風にたなびく、藍色の長髪。
鎖模様が浮かぶ、黄褐色の太い蛇体。
満月みたいに開かれた、透き通る青色の瞳。
「菜調……さん…………」
ここにいるはずがない人。
私が否定して、拒絶した人。
もう二度と会えないと、覚悟していた人。
なんで、ここにいるの?
「…………」
菜調は無言だった。
彼女の顔は怖かった。目つきは剣のように鋭くて、口元は固く結ばれている。
菜調は目線だけを智歩の足元に動かした。智歩が足元を見やると、巻き付いていたシマヘビの蛇体が”するり”と解けていた。自分を苦しめていた圧迫感もなくなっていた。
態度が豹変していたのは菜調だけではなかった。智歩の隣では、嶋田が蛇体をにわかに震わせていた。
「ちっ、何でここに…………」
文字にボールドをかけるように、部屋に響いた舌打ちが彼女の動揺を強調していた。もはや、それまでの
その隙に智歩は余力を振り絞って立ち上がった。骨折の痛みに耐えながら、ふらふらと嶋田から離れるが、数歩で体力は尽きてしまった。彼女は壁に寄りかかりながら、その場で崩れるように腰を下ろした。
それを見て菜調は小さく頷くと、再び嶋田の方を向いた。嶋田が菜調を睨んだ。
「何でこの場所がわかった」
彼女は表情を変えないままぼそりと呟いた。
「発信機だ」
それを聞いて、智歩は驚いた。
発信機――自分がはじめて菜調さんと山に行ったときに貰ったものだ。そういえば、カバンに入れていた気がする。それが誤作動か何かで起動したんだ。でも、何で発信機なんか入れていたのだろうかと疑問を感じたが、目の前のマムシ蛇人の姿を見て、その疑問は一瞬で解決した。
――きっと、心の底では菜調さんと繋がっていたかったんだ。
「で、何をしにきたの、汚いマムシが」
「……智歩を返せ」
「かえさないわよ。高崎も、お前も」
嶋田は声を荒げるが、菜調は全く怯まない。彼女は嶋田との会話を放棄したように、智歩の方を向いた。
「智歩、そこから動くな」
智歩は息を切らしながら、彼女にアイコンタクトで応えた。声を出す余力はなかった。菜調もそれを認識し、「絶対に助ける」と小さく、しかし力強く呟いた。
菜調の姿をよく見ると、黄褐色の蛇体の側面が傷だらけになっていた。全体がうっすらと赤く滲んでおり、鱗が剥がれて肉がむき出しになっている部分もあった。血がどろどろと噴き出ている箇所すら見かけた。
その原因は明らかだ。彼女は倉庫の壁を破ってここに来たんだ。倉庫の壁は1平方メートルの範囲に力士が乗っても耐えられる程の強度だと聞いたことがある。それを蹴り飛ばしたんだ、『痛い』で済むような話ではないだろう。彼女の呼吸も荒くなっている。それでも、彼女の
一方で嶋田は尻尾の先をぶるぶると震えさせて、菜調に敵意をむき出しにした。
「やりなさいっ!」
嶋田は右手を前に広げた。
それを合図に建物の奥から、鉄パイプを持った2本足の男が現れた。
巨躯の男は、菜調めがけて鉄パイプを大きく振りかぶる。
彼女は身をかがめてそれを回避。重厚な鉄塊が、ふわりと舞う群青色の髪の中をかすめる。
男、体勢を崩す。
彼女はその隙を見逃さなかった。バランスを失った足元を、マムシの蛇体が捉える。一瞬の内に蛇体は螺旋状に男に絡みつき、膝から胸元までを縛り付ける。
同時に、菜調は身をかがめる勢いのまま、床に手をつき立てる。前転の要領で男を縛ったまま一回転。黄褐色の鱗と、巨漢の身体が宙を舞う。
空中で、男を締め上げていた蛇体を
”どすんっ”という鈍い音。
床にひびを入れるような勢いで、巨漢は鈍色の床に叩きつけられた。それと共に、床の白いホコリがぶわっと舞い上がった。
その中心で、男は気絶した。
菜調は受け身をとりながら着地。着地時に床につきつけた手のひらから、血がじわじわと広がっていた。
それと同時。別の男が駆けつけて、菜調の腹めがけて振りかぶる。――直撃。
「がはぁっ!」
菜調は血反吐を吐きながら、後ろの方によろけそうになる。
彼女はなんとか踏ん張ると、叫びながら体を大きく捻る。床すれすれで蛇体を浮かせてフルスイング。男の脚に命中し、遠くの壁にふけて吹っ飛ばす。
男の背中が壁に直撃。がしゃぁんと、耳をふさぎたくなるような金属の音が響く。そのまま男は、床にもたれながら力なくうなだれた。気絶したようだ。
床を見やると、男と菜調の間には、扇状の赤いラインがいくつも重なっていた。菜調が血まみれの蛇体を振った跡だ。
その赤線に誘導されるように、智歩は菜調に視線を戻した。彼女は姿勢を低くして、ぜぇぜぇと息を切らしていた。開いたままの口から、赤黒い血がぼたぼたと垂れている。普段は隠していたであろう鋭利な毒牙も、むき出しになっていた。ばさばさに乱れた青髪の隙間からは、大きく開かれた青い瞳が見えた。
その風貌には、穏やかで凛とした彼女の面影はなかった。
とても痛々しくて、凄惨な光景。
智歩は震えながら、彼女が傷つくのを見ていることしかできなかった。
菜調は口から
嶋田は焦ったような表情で、後ずさりしながら銃を握り締める。
菜調はバネを押しつぶすように、赤く染まった蛇体を折り曲げて、倉庫の壁に押し付ける。彼女は下腹部にぐっと力をこめる。圧縮したバネを開放する要領で、壁を蹴る。低姿勢で、嶋田めがけて突撃した。
――なんで、貴女は私を守ろうとしてくれるの!?
私は、菜調さんを拒絶した。
私を心配する菜調さんの気持ちを、私は踏みにじった。
暴力にも訴えた。
私は最低だ。
そんな私のために、どうして戦ってくれるの?
「くそぉっっっ!」
嶋田は激昂。叫びながら、天井めがけて銃を乱射。
1発、2発。その度に、鼓膜を破るような轟音が銃口から吠える。
弾丸は天井を破壊し、粉々になった金属片が、菜調の進路に振りかぶる。まきびしを撒くように、鋭利な金属片が散らばっていく。
それでも、菜調は止まらなかった。床に撒かれた破片に腹を引き裂かれながらも、
――もう止めてっ!!
なんで、私のためにそこまでしてくれるのっ!
こんなにボロボロになって。銃も向けられてっ!それなのにっ!
智歩は声を出せないまま叫んだ。それでも、菜調は止まらない。破片が降り注ぐ道を突き進み、菜調は嶋田のすぐそばまでたどり着いた。
彼女は両手を床に叩きつけて、斜め上方向に跳ね上がる。そして、嶋田めがけて飛びついた。ぶわんと持ち上がった蛇体の腹は、紅色に染まっていた。
嶋田は血の気が引いた顔で菜調を見上げる。震える手で、菜調に銃口を向ける。それでも、菜調は怯まなかった。
嶋田の指が、トリガーを押し込んだ。
轟音。
――それでも、青い瞳は開いたままだった。
弾丸が菜調の頬をかすめる。彼女は止まらずに、嶋田めがけてダイブ。
どごぉぉんっ!
砂嵐が吹いたかのように、
直後、鈍い銃声が再び響いた。
弾丸の行く先は、見えなかった。
視界も、智歩の思考も、真っ白になった。
そのまま数秒間、無音が続いた。
智歩が
何もしないままに、時計の針が動くのを待つのが怖かった。
わけもわからないままに、煙の中に腕を伸ばそうと身体が叫んだ。
でも、意志に反して自分の身体は動かなかった。
壁にもたれて座った姿勢のまま、それを見届けることしかできなかった。
たちこめていたが、徐々に消えていく。
眼を
止まった時間の先の景色が、
嶋田は床に伏せていた。
彼女の右手には、銃が握られていた。
銃口は、天井を向いていた。
そして、菜調が嶋田に馬乗りになっていた。
銃を握る嶋田の手首を右手で押さえつけながら、蛇体で嶋田の身体を締め上げている。
嶋田の右手から、ころん、と銃が転げ落ちた。
彼女は気を失ったようだ。
嶋田を縛り上げていたマムシの蛇体が、ゆっくりと解かれた。
◇
菜調さんはゆっくりと、私のもとに近づいてきた。両方の手のひらを床につけ、ぺたんぺたんと力なく這いながら。ところどころ皮膚が剥げて、血まみれの蛇体を引きずりながら。うつむいた彼女の前髪が影を作り、その表情は隠されていた。
智歩が腕を伸ばせば触れそうなところにまで、菜調さんはたどり着いた。
その時、銃で穴が開いた天井から柔らかい銀色の光が差し込んで、私達を包み込んだ。
彼女は顔を上げた。目の前にくっきりと映ったその表情を見て、再び言葉が詰まった。
傷だらけだった。弾丸が掠れた頬には、赤い線が走っていた。他にも、細かい擦り傷、切り傷が散らばっていた。
――でも、凛々しくて優しい菜調さんの顔だった。
菜調さんは智歩の胸めがけて倒れこんだ。彼女の頬が、自分の鎖骨にぴたっと貼りついた。ひんやりしていてすべすべの、大好きな感触。
その感触が、彼女との思い出を呼び起こした。
夢中になって夢を追いかけた時間が。
憧れの彼女の、堂々とした姿が。
彼女への感謝と後悔が、洪水のように溢れた。
「菜調さんっ…………ごめんなさい…………っ!」
「ちほ……いいんだ……」
耳元で、菜調さんがささやいた。消えそうな声だった。
その声だけで眼が開き、瞬きができなくなった。目元が潤んでいくのを感じた。
彼女の言葉を聞きたくなかった。
だって、これ以上時間が進んだら、菜調さんと別れることになりそうだから。
彼女と自分の身体が重なった場所から、鼓動がゆっくりと刻まれているのが伝わってくる。”とくん”と弱い拍動を感じるたびに、その終わりを意識してしまうのだ。
『関わらないでくれ』と言った私に、そんなことを言う資格がないのは分かっている。わかってはいても、心の中で駄々をこねる。
そんな私に、菜調さんは想像もつかない言葉をかけた。
「智歩、今まで、ありがとう…………」
一瞬、 意識が飛んだ。
「智歩は……どんな時でも、私の夢は叶うと、言ってくれた……。私のために駆けまわって、……私のために、たくさん、なやんでくれた……。智ほがいつも、いっ緒にいてくれた…………。だから、……わたしは頑ばれた……」
私は、言葉をまとめられなかった。代わりに、涙があふれだした。
言わなきゃいけないことがあるはずだった。
それなのに、彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。
「菜調さん……菜調さん…………っ!」
菜調さんに
菜調さんは身体を持ち上げて、私に顔を見せた。
彼女は、とても穏やかな笑みを浮かべていた。
「ありが……とう…………。わたしに……、ひかり、を………………くれて……」
「菜調さんっ!……そんな、待って…………」
菜調さんは、力なく私の胸に倒れこんだ。
私たちを包んでいた銀色の光が、ゆっくりと淡くなって、静かに途絶えた。
第6章 『月』
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