帳を破る

 嶋田は真顔だった。

 一切の感情が読み取れないような表情だった。


 次の瞬間、額に細い金属筒が突きつけられた。


 硬くて冷たい感触が「動くな」という指示を全身に行き渡らせる。

 硬直した身体の代わりに、心臓が暴れだす。

 呼吸が音を伴うようになり、智歩の命を刻む1つ1つの動きが、外へと漏れ出ていく。


 気づかぬうちに、フロントガラスを除いた車内の窓には、全てシャッターがかかっていた。

 外の景色が見えなくなった密閉空間で、嶋田の赤い瞳だけが視界に映った。

 

「撮ったでしょ?」


 目の前で猫だましを喰らったように、智歩の身体が小さく震える。

 知らずの内に、智歩の視線が自身のスーツのポケットを向いた。嶋田はそれを見逃さなかった。


 智歩の腰に巻き付けていた蛇体をぐるぐると動かして、拘束を維持したまま、尻尾の先端で智歩のポケットを漁りだす。


 その感触はあまりにもおぞましくて、智歩は今にも叫びそうになった。

 それでも、額に突き立てられた円柱が、それを許さなかった。


 智歩が地蔵のように固まる中、シマヘビの尻尾がポケットから端末をほじくりだした。端末は”こてん”と、力なく座席シートに転げ落ちた。


 「全く、誰の入れ知恵かしら」

 

 シマヘビの尻尾が端末をすかさず掴むと、ぺきっと端末をへし折った。

 ぱらぱらと、ガラスの破片が座席に散っていった。


「私、不確実なものは嫌いなの。余所者が”今日のことは忘れる”なんて言っても、信じると思う?」


 嶋田は真顔のまま、じっと智歩の表情を観察する。

 智歩も合わない焦点を必死に嶋田の方に向けて、本能的に睨み返そうとした。嶋田には、それがかわいらしく見えていた。


「あら、銃が出てきたのが意外だった?」

 

 嶋田は冷然とした様子で口を開くが、智歩には返事ができなかった。

 額の銃口から伝えられた停止命令は、口も対象となっていた。「身体のどこかが少しでも動いたら命はない」という恐怖が、智歩の身体の制御を乗っ取っていた。

 

「意外と知られてないみたいだけれど、蛇人の身体って強いのよ。おばさんでも簡単に金属板を割れちゃうくらいにね」

 

 シマヘビの尻尾の先端が、ケースごと真っ二つにされた端末の方をつんつんと刺した。片方は無残にも床に転げ落ちていて、もう片方は座席シート上で配線をむき出しにしていた。

 その端末に、智歩は思わず自分の身体を重ねて考えた。ぶつ切りになった銅線を見て、自身の骨や血管を想起した。


「全力で蛇体を振れば、簡単に人を殺せるのよ。――野蛮なマムシと一緒にいた貴女なら、それは説明されなくても分かるかしら。蛇人社会では誰もが凶器を持っていると言えるの。そんな社会の裏で生活するなら、蛇体を上回るリーチと殺傷力のある護衛手段が必要。だから、沢山の銃が流通しているのよ」


 彼女の話を聞く中で、智歩は突然、昔読んだ本の一節を思い出した。『銃に不慣れな人間は、”人を殺してしまうことへの恐怖”から、腕が震えて狙いが定まらない』というものだ。

 自分に突きつけられている銃はどうだろうか。まるでネジでそこに固定されているかのように、少しのブレも見せていない。強いて言うなら、車の振動で多種揺れているくらいだ。

 それを握る右手も安定していて、視線を少し上げれば、赤い2つの瞳がまっすぐに自分を捕捉し続けている。

 

 彼女は何者なんだ。

 何度もこのようなことをした経験があるのか。


 これ以上ないと思われていた恐怖が、さらに上書きされていった。

 だが、さらなる危険を察知したとて、何か行動に移せるわけではなかった。ただただ、震えることしかできなかった。


「これじゃあまともに会話できないわね。……アレを頂戴」

 

 嶋田は片腕を伸ばし、車の運転手から何かを受け取った。注射器だった。


「毒蛇と危険性を結びつけるのが不適切ということには、私も同意するわよ。高崎さん」


 嶋田は智歩の腕に針を潜り込ませると、ぷすりと一刺し。

 そこから、智歩の意識は消えていった。

 

 

    ◇



 

 目覚めたときには、私は薄暗い空間にいた。

 

 いつの間にかスーツは脱がされていていた。そして、腕と脚が縄で拘束された上に、金色の蛇体が全身を締め付けていた。

 むき出しになった腕や脚に、冷たい蛇体が食い込んでくる。皮膚だけでなく骨までもが直接、圧迫されているような感覚だ。骨と骨のつなぎ目が強い力で擦れて、ぎちぎちと不快な音を立てているような気がする。


 そして正面には、1mほどの間隔をあけて、蛇体の持ち主が椅子に座っていた。嶋田の口角は少しだけ上がっており、平常時と変わらないような余裕がある態度を見せていた。それでも、見るものを怯えさせるような鋭い目つきは変わらなかった。


「おはよう、高崎さん。目覚めはどう?」


 言葉の代わりに、嶋田を睨みつけて返事をした。銃が見えていないため、反抗する態度を見せる精神的な余力があったのだろう。


「元気そうで良かった。ごめんね、何か隠し持っていたら困るから、スーツは脱いでもらったわ。別に猿の女の子に”そういうこと”をするような趣味はないから安心してね」

 

 周囲を見渡すと、何かの倉庫のようだった。

 壁は灰色で、ところどころに塗装が掠れたコンテナのようなものが積まれている。

 部屋には窓がなくて、上からぶらさがる照明の頼りない白い光だけが、自分と嶋田を照らしている。


 床にはホコリが充満していて、照明に照らされた場所では、白いほこりがふわふわ舞っているのが見える。

 それが鼻をくすぐってムズムズするが、腕が動かせないからかゆみから解放されない。まるで頭の中を虫にかき回されているかのような不快感だ。


 それを他所に、嶋田は口を動かし始める。

 

「高崎さん、芸能の世界で活躍するのに一番大切なものは何だと思う?」


 発言の意図が全くつかめなかった。

 でも、どのみち貴女の芸能論には興味はない。彼女の問答に答える価値も見いだせない。


 だから口を閉じた。

 嶋田は動じずに、1人で話を続けた。

 

「……努力や才能、環境あたりが定番どころの回答よね。高崎さんは幸運にも、それらを全て兼ね備えていたの」


 知ったことか。私にどれだけ素質があっても、貴女の手駒には絶対にならない。


 「呑み込みが早くて、寝る間を惜しんで研鑽を重ねることができる。そして、私に出会うことができた。いわば高崎さんは、スターになる運命を神様に与えられたと言っても過言ではないの。……でも、それよりももっと大切なものがあるの」


 嶋田は絡みついた蛇体を動かして、私の身体を摩ってきた。得体の知れない女性の無数の鱗が素肌に擦れるたびに、生理的な嫌悪感を覚えた。蛇体の先端が私の顎に触れ、彼女の顎から首までをゆっくりと撫でていった。撫でられた部分には跡が残るように、ぞくぞくとした寒気を感じた。


「何よりも大切なもの……それは”従順”よ。自分の力が及ばない時には、長いものに巻かれること。それができなければ、他ができても無意味なの」

 

 嶋田は手招きすると、部下らしき男が、2つのワイングラスが乗ったおぼんを運んできた。中には赤紫色の液体が満ちていて、水面は滑らかな波を立てている。


「お疲れ様。高崎さんの荷物はどうだった?」

「怪しいものは処分いたしました」

「そう。ありがとうね」

 

 部下の男は近くにあった小さいテーブルに2つのワイングラスを置くと、暗くなっている部屋の奥へと移動していった。男の姿が見えなくなったあたりで、 嶋田はグラスの1つに目をやり、それを持ち上げて口をつけた。

 それをテーブルに置くと、嶋田が自分と同じ高さの目線から、声をかけた。

 

「そろそろ喉が渇いたんじゃないの?飲むと良いわ」


 彼女はもう片割れのグラスを手に取りながら、腰を持ち上げた。蛇体での締め付けを維持したまま自分の方に近寄ってくる。意識を歪ませるような芳醇な香りが、じわじわと濃くなっていく。

 目の前に、グラスが差し出される。ぼんやりした照明の光に照らされて、ワインの水面が妖しく光っている。それが底なしの沼のように見え、引きずり込まれまいと無意識に脚に力を入れる。

 それを見透かされたように、下半身をより強く締め付けられた。叫びそうになりながらも、歯を食いしばった。


「さぁ、口を開けるのよ」

 

 ぬるい温度のガラスが唇に触れて、眼下に浮かぶ紅い鏡が、じわじわと傾いていく。濃厚なブドウとアルコールが鼻を潜り抜け、身体の中をかき回す。


 それでも『誰が従うか』と言わんばかりに彼女を睨みつける。それが、自分の意識を保つ方法だと信念が訴えていた。すると嶋田は赤子の拙い仕草でも見たかのように、くすくすと笑いだした。


 嶋田は返事を待つが、黙り込みをつづけた。嶋田の問答に付き合うことそのものに、意義を感じなかった。私は、あなたの夢の礎にはならない。絶対に口を開けるものか。

 

 嶋田はため息をつくと、つまらなさそうな目でワイングラスの片方を持ち上げた。そして、もう片腕の細い指で私の口をこじ開けると、ワインを無理やり垂れ流した。


 口の中に、濃いアルコールが充満した。匂いを嗅いだだけでも酔ってしまいそうなそれが、身体の中に染みこんでいく。理科室のアルコールランプを、そのまま口にねじ込まれたかのような気分だ。


「げほぉっっ!」


 思わず吐き出してしまった。血を噴いたかのように、黒味がかかった赤紫色の液体がべちゃべちゃと床にこぼれた。

 

「随分とやってくれるじゃない」

 

 嶋田はハンカチで、自らの蛇体についたワインを拭いた。

 見える範囲の汚れを拭きとった嶋田は、冷めたような目つきを向けてきた。彼女は、笑顔と真顔の中間のような表情になっていた。


「私は寛大だから、最後のチャンスをあげるわ」


 嶋田は蛇体の締め付けを強めた。自分のふにふにした素肌に、冷たい鱗がぐにっと食い込む。圧迫された骨の関節部が悲鳴をあげて、思わず「ぐぁっ」と声が漏れる。

 

「高崎さん、先程説明したように、君にはプロデューサーのタレントとしてスターになる素質があるの。従順でさえいてくれれば、ね。私が何年探しても見つけられなかった原石が、高崎さん……貴女なのよ。私がこれからプロデューサー活動を続けても、『高崎さんを逃したのは勿体ないなあ』と後悔し続けるはずだわ。古傷みたいにずきずきと、私の精神をわずかに抉り続けるのよ、きっと。私はそれが、気に入らない」


 頭上で揺れる壊れかけのライトが、ぶつぶつと音を立てて点滅する。五感を奪うような暗闇と、赤い瞳をこちらに向ける嶋田の顔が、ちかちかと視界の中で交互に映る。


「私の管理下でタレントとして活動して、私の後継者になるか。それとも、ここから帰れなくなるか。選択肢は2つに1つよ」


 囁くような声が、闇の中で耳をくすぐり、冷えた蛇体が身体をぎゅっと引き締める。

 それでも最後の力を振り絞り、口を開ける。目の前の恐怖に抗い、睡眠薬とアルコールで重くなった身体にムチを打つ。


「…………わたし……は……」


 嶋田は静かに、じっとこちらを見つめる。無言のまま、彼女が望む答えを返すように圧力をかけてくる。

 でも、答えは1つに決まっていた。迷う余地はなかった。

 

「わたしは……アナタには従いませんっ!!!」


 余力すべてを込めたような叫びが、静かな建物の中に響く。

 はぁはぁ、と息を荒げながらも、嶋田を両目でとらえ続ける。自分の意志は変わらない。


 私は見つけたんだ、自分の大切なものを。自分が何に憧れて、何を成し遂げたかったのかを。

 だから、嶋田とは一緒に歩めない。ゆるぎない意志を、嶋田に突きつけた。


「そう、残念だわ」


 機械のような、感情のない冷たい声。

 嶋田の口元がまっすぐになった。彼女は椅子から立ち上がると、血のような赤い瞳でこちらを見下ろしてくる。


 嶋田が懐を漁りだす。それを見ただけで、背筋にぞくりと恐怖が走る。

 口元がぶるぶると震えだして、自分の力で閉じられなくなっていく。


 眼の焦点が合わないのに、意識が嶋田の一挙手一投足に釘付けなっていく。


 嶋田は小銃を取り出した。

 黒い金属の光沢が、ホコリとチリでかすれた世界で、ギラリと異質な存在感を放つ。


 頭上からぶつぶつと鈍い音がして、壊れかけた液晶のように視界が激しく点滅する。

 ぱちん――。


 すべてが真っ暗になった。


 何も聞こえない。

 何も見えない。


 巻き付いた蛇体がうごめく感触だけを肌で感じるが、それを裏付ける音も視覚もない。

 何もわからないまま自分の命が、大蛇の手のひらで転がされている。


 額に金属の筒が押し付けられた。

 噴き出る汗で湿った自分の肌とは対照的に、それは硬くてつるつるしていた。自分の存在を否定するようだった。

 

 身体が動かない中で、締め付けがどんどん強くなる。

 密室で扉をがんがんと叩くように、心臓だけが必死に暴れている。それなのに、身体が言うことを聞かない。 

 

 足首の感覚がなくなった。

 腹に力が入らない。


 腕の関節って、どこにあるんだっけ。

 


 かちゃん、と小さい音が聞こえた。

 

 ――私は、ここで死ぬんだ。


 

 

 どがしゃぁんっ!!!


 耳をつんざく轟音。正面方向からだった。

 

 部屋の奥。灰色の壁が、吹き飛んだ。

 壁の金属板が崩れ落ちて、がしゃがしゃと鋭い金属音が弾ける。その衝撃に、思わず目をつむる。


 壁の破片が落ちる音が落ち着き、ゆっくりと目を開く。

 

 すると、暗闇が晴れていた。

 壁に開いた大穴から、優しい月光が差し込んでいた。


 夜風が吹き抜け、床に充満したチリやホコリが波をつくり、壁の大穴から逃げるように離れていく。

 

 その大穴の中央には、凛として立つ、1つの人影。

 私は目を疑った。

 

 ――嘘だ。そんなはずがない。


 

 風にたなびく、藍色の長髪。

 黄褐色の、鎖状の蛇体。


 閃光のようなまばゆさの、透き通った青色の瞳。



「菜調……さん…………」

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