智歩の大好き

 菜調と別れてから、数日が経った。

 智歩は東京の寮で仮住まいの生活をしながら、本格的なタレント活動の準備に追われていた。寝る間も惜しんで、たくさんの知識や技術を貪欲に身に着けた。決して楽ではなかったが、これも夢を叶えるためだと思い、必死に喰らいついていた。


 その中で、何度かユリカの姿を見かけた。彼女はやけに自分のことを意識しているようだったが、徹底して無視を決め込んだ。自分は変わらなきゃいけない。もう、大きな犠牲を払ったんだ。今更後戻りはできない。


 

     ◇

 

 

 今日も夜8時まで続いた研修を終えて、智歩は仮住まいの寮に向かっていた。現場と寮との移動には、アスファルトで整備された海岸公園の道を使っていた。


 智歩のズボンの中でスマートフォンが鳴った。仕事のメールを受信したようだ。智歩はメールを確認すべく、近くのベンチに移動。


 手早くメールへの対応をした智歩は、座ったまま顔を上げた。目の前には灰色の海が広がっていて、ビニールごみがぷかぷか漂っている。その上には、曇り空だ。

 

 智歩は、ぼんやりと海を眺めると、小さくため息をついた。

 

「やっぱり嫌だよね、こう何日も曇りが続くと」

「……そうですね。暖かい太陽の下で日向ぼっこするのが恋しいです……って、ユ、ユリカさん!?」


 智歩が驚きながら左側に振り向くと、自分より少し小柄なウミネコの翼人が、グレーの両翼を膝に乗せながら座っていた。

 彼女は朗らかな笑みを浮かべ、「やっほ」と言いながら右翼を振った。


「びっくりしたぁ……。ちゃんと正面から話しかけてくださいよ」

「はーい、善処します」


 ユリカは翼をばさりと動かして敬礼のポーズをしながら、軽く返事をした。智歩は呆れれたように肩を落として、視線を海に向けた。


 実際のところ、ユリカは前日に、正面から智歩に話しかけようとしていた。しかし、智歩は露骨に無視をした。そこで、智歩と対話するためのアプローチを経験則から考えて、実行したのだ。もっとも、そのことは一切表情に出さず、単にサプライズを試みたように装っていた。


 そして、智歩はそのことに気づくこともなく、ユリカに冷めた態度をとった。

 

「で、どうしたんですかユリカさん。今日は何も食べ物ないですよ」

「智歩ぉ……。私のこと、野良猫か何かだと思ってない?」

「何言ってるんですか、ユリカさんと違って猫は可愛いですよ」

「ひどい」

 

 ユリカは一瞬、いじけたような表情をしながら翼で口元を覆い、智歩に上目遣いをしてみるが、智歩は特に効果はなかった。

 ユリカはぶるぶると身震してから座りなおすと、灰色の翼で智歩を包んだ。


「しかし、智歩もようやく日光浴の魅力を理解したんだね。これでようやく、私も”豊臣秀吉”を卒業だ」

「ちょっと、その話はしないでくださいっ!黒歴史なんですっ!」


 智歩はユリカをにらみながら、彼女の翼を腕で振り払った。


 

     ◇

 

 

 2人は、幼少期のことを思い出していた。

 

 太陽でほかほかに暖まったユリカの羽毛に包まれるのが、幼少期の智歩にとっては何よりも幸せだった。「ユリカちゃんは私のお布団」と言い張り、自宅に招いたユリカを帰そうとしないことすらあった。


 ユリカは智歩を喜ばせるべく、智歩と会う際には事前に日光浴で翼を暖めるのを習慣化した。そして、幼い智歩はそこのことにすぐ気づかず、ユリカには電気コタツのように発熱する能力があるのだと勘違いしたのだ。さらに、存在しないユリカの能力を、他の人に自慢することすらあった。

 

 後から真実を知った智歩は、ユリカに手間をかけさせていたことへの申し訳ない気持ちと、自身の勘違いの恥ずかしさから、一連の出来事を黒歴史扱いするようになった。


 これが、ユリカが言う”豊臣秀吉事件”である。


 

     ◇

 

 

「で、智歩はいつごろから、自分で日光浴するようになったの?」

「……数週間前にハマったんです。8月の涼しい日に、ちょっと機会があって……」

「8月……なるほどねぇ」

「どうしたんですか」


 一人で納得したような素振りを見せるユリカを、智歩は不機嫌そうな半開きの眼で見つめる。ユリカは両翼をばさばさ振って、何かを誤魔化すような態度をとった。

 

「……ううん、何でもない」

 

 それから、ユリカと智歩はたわいのない雑談をつづけた。ユリカはいろいろな角度から智歩が楽しめそうな話題を提供しつつ、その度に智歩の表情を確認した。しかし、智歩は不機嫌そうなままだった。話しかけたときの陰鬱さに比べると多少はマシになったが、彼女の口角が上がることはなかった。

 


    ◇

 


 そのまま、1時間ほどが経過した。


 智歩は顔を曇らせたまま、ぼんやりと海を眺めていた。

 ユリカも海を眺め、しばらく無言で何かを思案した後、”はぁ”と小さくため息をつく。そして、海の向こう側を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。

 

「この前、映像で見たんだ。菜調さんのパフォーマンス」

 

 その瞬間、智歩の黄色い瞳が少しだけ開いた。

 それを横目に確認したユリカは正面を向いたまま、明るく落ち着いた声で話をつづけた。


「圧巻だったよ。特に大ジャンプが凄かったなぁ。ねぇ、智歩。あれが菜調さんの決め技なの?」

「……はい。昔はもっとシンプルだったんですけど、菜調さんと何度も話し合って、空中トリックを改良していったんですよ」


 智歩の声は、それまでよりもわずかに――だが、間違いなく明るいものだった。

 

「なるほど。技の完成まで大変だったんじゃない?」

「はい。特にジャンプ中の最後の回転を、お客さんに綺麗に魅せるのが大変でした。でも、菜調さんは絶対に諦めなくて、毎日傷だらけになりながら夜遅くまで練習したんです」

「へぇ。なんだかカッコいいね、菜調さん」

「そうなんですっ!だから私も菜調さんの力になりたくて、毎日練習に付き添いながら、2人でベストな魅せ方を探りましたっ」


 智歩の声量が、少しずつ大きくなっていく。

 ユリカの頭の中に、智歩の表情が明るくなっていく様子が映し出されていく。ユリカは淡々と、穏やかな声で質問を続ける。


「智歩も頑張ったんだね。……ところで、菜調さんって10mくらいジャンプしてない?あんなに高く飛ぼうとすると、いろいろ規制とか厳しいんじゃないの?私だって、街中だとルールにがんじがらめで自由に飛べないし」

「そうなんです、パフォーマンスの許可を取るのが本当に大変で……。この前に新しいパフォーマンス会場の時なんか、管理者の方と5回も交渉することになったんです」

「よく諦めなかったね……」

「菜調さんのパフォーマンスを見てもらうためって想えば、なんてことありませんよっ!」

「…………そっか」


 その問答の度に、智歩の声色はどんどん明るくなっていた。それを感じ取りながら、ユリカは優しい相槌を返し続けた。


 その間、ユリカは智歩のことを一切見なかった。むしろ、智歩から顔をそむけるようにしていた。声色の変化だけで、智歩の様子を感じ取っていた。

 智歩からもユリカの表情は見えなかったし、智歩がそれを意識することもなかった。幼馴染の2人の視線は、静かに波打つ黒い海へと向けられていた。

 

 ユリカは、少し黙り込んだ。

 静かな夜の海岸に、小さな波が水面を走る音だけがこだました。


 智歩の膝の上に置いていた片方の翼を優しくひっこめると、重たそうに口を開いた。

 

「……本当に大好きなんだね、菜調さんのことが」


 智歩はユリカの膝に置かれた両翼に手を伸ばし、彼女の手羽先をぎゅっと握りしめた。そして、彼女の翼を自分の方に寄せながら、顔をユリカの方に向けた。

 

「はいっ!!だから私も立派なプロデューサーになって、必ず菜調さんの夢を叶えますっ!」


 ユリカの身体が智歩に向けて引っ張られ、ユリカの視界が、中央に智歩の顔を捉えた。

 銀髪の少女は、満面の笑顔を浮かべていた。

 

 それを見たユリカの黄色い瞳が、一瞬だけ潤んだ。智歩に掴まれた翼が、わずかに震えた。しかし、ユリカは即座に、目を優しく閉じた。


 そして、ゆっくりと目を開けると、穏やかに口角を上げた。

 


 すると、今度は智歩の眼から、涙がぼろぼろと溢れ出した。


「智歩、大丈夫!?」

「わたし、なづきざんに……ひどいこと……う”っ」

「……」

「ユリカち”ゃん…………」


 智歩はユリカの痩せたお腹に顔を埋めると、年甲斐もなく泣き始めた。

 

 ユリカは両翼で智歩を優しく包み込み、とんとんと彼女の背中をたたいた。

 波がざあざあと押し寄せるが、2人の涙を洗い流してくれることはなかった。



   ◇



~翌日~


ユリカは1人、電車に揺られていた。

周囲の乗客は、ほとんどが蛇人だ。


ユリカは車窓から曇り空を眺めて、ためいきをついた。


「……さて、やれることはやっておくかぁ」

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