蛇と伝書鳩
菜調は、いつもの駅前広場でパフォーマンスを実施し、その片付けをしていた。
今日の客数は20人ほど。数か月前に比べれば上々だ。貰える投げ銭も増えてきている。
大技を成功させて、たくさんの拍手と歓声を浴び、活動資金を確保する。表面上は、何も問題ないように見える。
でも、パフォーマンスの質は、確実に下がっている。
最近は、惰性で踊っているような感覚がする。踊ることを楽しめていない。義務感というのだろうか、他に選択肢がないから踊るしかないという、消極的な考えに突き動かされている。
それだけではない。パフォーマンス後のトークでも、何も喋れなかった。――これでは、”夏の前に逆戻り”だ。
『新蛇祭』のオーディションまでは、1週間を切っていた。
菜調は荷物をまとめて帰宅する中で、ふと立ち止まった。歩道橋の柵にもたれかかって、顔を上げる。
晴れていれば、空が鮮やかな橙色で染まるような時間帯。
しかし、自分の頭上に広がる空は藍色の雲でふさがれていて、夕刻であることもわからない。
私の時間は、止まっていた。
◇
「ごきげんよう、菜調さん」
横から、おしとやかな女性の声。どこかで聞き覚えがあるが、心当たりはない。
左を向くと、肩から灰色の翼を生やした人間が、こちらを見つめていた。
彼女は猛禽のような脚で金属の柵をがっしり掴み、両翼を畳んだ姿勢で立っていた。
体幹に優れているのか、不安定な足場に対して身体は微動だにしていない。まるで石像のようだ。彼女は動かないまま、黄色い瞳でじっと自分に視線を向けてくる。
その佇まいには風格があり、口角はわずかに上がっているにも関わらず、真顔のようにも見える表情をしていた。少なくとも、単なるファンではなさそうだ。
「…………何の用だ」
菜調は冷淡な口調で、金髪の
「あら、随分と素っ気ない対応をなさるのですね。常に笑顔をこころがけるのが、優れた演者のたしなみですよ」
「悪かったな」
「……本当に不器用な方なのですね。彼女に教えてもらった通り」
「何なんだ、お前」
金髪の翼人は、背丈の1.5倍はありそうな両翼を広げながら柵の上からぴょんと飛び降りる。彼女の羽織る白い袖なしアウターが、羽衣のようにふわりと膨らむ。見るだけでも軽さが伝わるような薄手の生地であると共に、毛玉のない表面は滑らかな肌触りであることが、菜調にも想像できた。
彼女は着地して翼を畳むと、首を上に傾けて、菜調と視線を合わせた。
「私は、ただの伝書鳩です」
ユリカは口角を小さく上げる。それでも、2人の間には、どこか緊張が走っていた。
彼女らの雰囲気によるものか、それとも単なる偶然か、2人の近くからは人がいなくなっていた。
菜調はユリカの顔をじっと見ると、既視感の正体を思い出した。
「数日前の公演にも来ていなかったか?」
「あら、認知してくださったのですね。先日は、特に声をかけていないのに。光栄です」
「パフォーマーに必要な能力だ」
菜調はそっぽを向きながら、ぼそっと呟いた。
彼女はこう言ったものの、実際に客の顔を意識するようになったのは、1か月ほど前からのことだった。それまでの菜調は基本的に、他人への興味をほとんど向けていなかった。――正確には、他人が怖かった。
しかし、ムカデの踊り子の活躍見て、そういった努力も必要だと考えたのだ。そこで、智歩に特訓をつけてもらい、今では常連のファンの顔を覚えられるほどになったのだ。
もっとも、ユリカの存在を覚えていたのは、この地域では珍しい翼人だったという点が大きいのだが。
一方でユリカも『翼人の客がいたら目立つよね』と推測はしていたが、そのことは口にせず話を進めた。
「……さて、優秀なパフォーマーである菜調様に、お願いがあります」
ユリカは静かに1、2歩前進すると、身体をぐっと前のめりにした。
金髪の女性の
彼女の黄色い瞳が向ける視線が、鎖のように菜調の意識を引き寄せる。
そしてユリカは
彼女は口を開き、優しさの中にくっきりとした”輪郭”のある声でささやいた。
「私には為しえないことが、貴女にはできます」
菜調はどう反応すれば良いのかわからなかった。翼人の言葉は、その足元をひらひら舞っている羽毛のように思えた。ふわふわと軽くて、掴むことができない。
だが、彼女の口ぶりは、彼女の鳥脚のようにがっしりと地についていた。それは悪ふざけの類ではないと、菜調は確信した。
だとしても、詳細は聞かなければならない。菜調は口を開く。
「何なんだ、わかるように言ってくれ」
ユリカは”はぁ”とため息をつくと、ぷいと横を向いた。ビルの隙間から見える藍色を見やりながら、ぼそりと呟いた。
「……高崎智歩」
菜調の青い瞳が、がっと開いた。そして次の瞬間には、目つきは鋭くなっていた。
邪魔にならないように柵に巻き付けていたマムシの蛇体を、無意識のうちに解いていた。何があってもすぐに蛇体を動かせる、いわゆる臨戦態勢になった。
「智歩!?」
「はい。貴女の大切な、智歩さんです」
ユリカはそれを横目で見ながら、動じない表情で話を続ける。
「私と共に、東京に来てください。智歩……高崎さんに会っていただきます」
「会ってどうするんだ」
ユリカは口元に
「それは、貴女が現地で判断してください。これは、”貴女達”の問題ですから」
ユリカの声色は、耳元を優しく撫でるように穏やかだった。それなのに、その口調は突き放すような冷たさがあった。
菜調が眼をぱちぱちさせていると、ユリカが菜調の方を向いた。
「……流石に、二つ返事とはいきませんか」
「まだ信用できない。そもそも、お前の素性も聞いていないからな」
「そうですね。これじゃあ、模範的な児童誘拐の手口です」
彼女は自身の懐を手羽先で漁ると、革製の財布を取り出す。鳥脚を翼の先につけたような爪を器用に使って、財布の中から名刺を取り出し、菜調に差し出した。
三根ユリカ、と書かれていた。
その名前には菜調も聞き覚えがあった。智歩が熱心なファンとして、たびたびその名前を口にしていたのだ。「菜調さんと同じくらい尊敬してる」とも「最も偉大な音楽家」とも言っていた。いつぞやの動画撮影で、彼女のドキュメンタリー動画を参考にしたことも覚えている。
「智歩が好きなピアニストか」
「”好きなピアニスト”……そうですか。いえ、何でもありません。少なくとも、胡乱な存在ではないことは理解していただけましたか?」
「……智歩と面識はあるのか?」
「ええ。同じ事務所の同僚ですよ」
ユリカは懐から、沢山のボタンがついた携帯端末を取り出すと、智歩のタレントデビューを告げる投稿を表示した。そのアカウントには、ユリカの名刺と同じ、『しまへびプロダクション』の文字。
「高崎さんとは先日知り合ったんです。貴女がおっしゃる通り、彼女は私のファンでしたから、すぐに親交を深められました」
「そうか」
落ち着いた態度で話すユリカに、菜調もそれ以上の疑問を抱くことはなかった。
ユリカは菜調に見せていた諸々をしまうと、
「……改めて、私と一緒に来ていただけますか?」
「ああ」
菜調も右腕を出して、ユリカの手をしっかりと握った。
◇
菜調とユリカは、電車の座席に隣り合って座っていた。
夕方に地方から東京に向かう――通勤ラッシュが発生する方向とは逆向きの電車だったので、車内は閑散としていた。
ユリカは黙々と、折り畳み式の携帯端末を弄っていた。その手元に、菜調の視線がちらちらと向けられた。
それを察知して、ユリカは菜調の方を向いた。
「……気になりますか?」
菜調が静かにうなづくと、ユリカは空いている左翼の爪を菜調に見せつける。それは鳥の脚のように、黄色くてごつごつしている。ユリカは静かな笑みを浮かべながら、それを閉じたり開いたりしてみせた。
「私たちにとっては、タッチ操作よりもボタンの方が、勝手がいいんです」
「なるほどな」
「貴女達だって、スマホやPCの画面を拡大するでしょう」
「
「そういうものです」
「そういうものか」
ユリカは口角を少し上げた後、端末に視線を戻そうとする。その時、”ごおお”という音と共に、車窓が一斉に真っ暗になった。電車が地下に入ったのだ。
電波が途切れて端末の画面が動かなくなり、ユリカは手持ち無沙汰になった。ぱたんと端末を閉じた彼女に、菜調が声をかけた。
「三根、その爪でピアノを弾くのも苦労するんじゃないのか?」
ユリカは眼をぱちぱちと開けた後、まぶたを閉じながら
「ええ、いろいろと工夫をしています。楽器を傷つけないように、爪先にシリコンカバーをつけたり」
「羽毛が散ることへの対策も必要だと聞いた」
「よくご存じで。鍵盤の隙間に羽毛が挟まったら大惨事です」
「……大変なんだな」
「貴女こそ、難儀が重なっているのでしょう?例えば、蛇体を振り回すダンスができる会場は限られているとか」
「その通りだ」
「お互いに、苦労が絶えないのですね」
「ああ」
ユリカが微笑み、菜調も静かに頷いて返した。
その時、車窓からネオンの光が漏れ出した。電車が地下を抜けて、都市部に近づいたのだ。
「もうすぐ着きますよ」
ユリカは菜調に声をかけると、端末を開いた。
その直後、ユリカの眼が大きく開いた。穏やかさを保っていた彼女の顔から、血の気が引いて行った。
ユリカは
「あのバカ……」
ユリカが開いていた画面は、智歩とのチャットだった。
◇
06:48 三根ユリカ
今日の9時半から会える?
06:56 高崎智歩
何の用事ですか?
06:56 三根ユリカ
一緒に夕飯食べたいなって。この前約束したでしょ?うなぎ奢るって。
07:04 高崎智歩
本当に考えてくれてたんですね。
07:04 三根ユリカ
滅多に行けない店なんだからさ、絶対に来てよ!絶対の絶対だからね!
07:06 高崎智歩
楽しみにしておきます。
20:18 高崎智歩
ごめんなさい、嶋田さんから急なお仕事の話があって、行けなくなりました。
キャンセル料は支払います。
本当にごめんなさい。
◇
~東京~
智歩は、車の後部座席に座っていた。隣に座っているのは、芸能界の大物であり師でもある、嶋田プロデューサーだ。
車内にはタクシーのようなにおいが充満していて、座席には丁寧にシーツがかけられている。
高級車だからか、あるいは道が舗装されているからか、車内に大きな揺れはない。
彼女から突然「仕事の話がある」と言われ、智歩は彼女の車に乗っていた。
今まで、嶋田から夜間に話したいと言われる度に、自分の人生は大きく動いてきた。
今日こうして呼び出されたのも、大きな仕事の話なのだろう。そう考えると、緊張で身体が震えだす。それに呼応するように、車が均一で規則的に揺れる。
だが、こんな所で根を上げるわけにはいかない。この先、もっと緊張する場面、より困難な状況がいくつも待ち受けるはずだ。それでも、私は喰らいつかなければならない。親友からの誘いを断ってでも、私は成長しなければならない。
一刻も早く、立派なプロデューサーにならなきゃいけないから。
「ごめんなさいね、マムシの子のプロデュースもあるのに、ずっと東京にいてもらって」
「……大丈夫です。辞めることにしました。菜調さんのプロデュース」
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