無月でも進む道
「高崎ちゃん。私の後継者になってくれない?」
嶋田は静かに、だがはっきりと言った。その言葉に、智歩の頭は真っ白になった。
「後継者!?わ、私が……ですか?」
同様でぶるぶると震える智歩の肩に、嶋田はしわがついた手をやさしく置いた。彼女は燃えるような赤い瞳で智歩を見つめながら、筋肉が緩んで柔らかくなった口を開いた。
「ちゃんと経緯を説明するから、落ち着いて聞いてちょうだい?ほら、深呼吸」
シマヘビの蛇体が智歩の膝を握ると、そのままズボンをおろすように、足先に向かってゆっくりとスライドする。冷たい感触が脚の下半分を撫でる感触に促されて、智歩はゆっくりと息を吐く。
「……少し落ち着きました」
「よし、良い子ね。じゃあ話すわよ。……私はプロデューサーをしながら、自らもタレントとして活動してきた。でも、事務所の規模が大きくなるにつれて、それらの両立が難しくなってきたの」
「つまり、タレント活動を諦めて、プロデューサー活動に注力したいということですか?」
「でも、タレントとしての私が、誰かの光になっているのもまた事実。そう、貴女みたいにね」
嶋田は智歩に顔をぐっと寄せると、細い指で少女の顎をなでた。
顔に張り巡らされた神経を指でなぞられたような感覚を覚えて、智歩は背筋に冷たさを感じた。意識が圧縮され、その全てが眼前の女性に向けられた。
「私がタレント活動を畳めば、私というタレントに照らされていた人に、光が届かなくなってしまう。そのままでは、全ての人を夢中にするという私の夢は成しえない」
「それで、嶋田さんの代わりに『プロデューサーのタレント』ができる人を探していた、ということですか?」
「そう。プロデューサーの能力が高くて意欲があって、そして特定ジャンルに固執することもない。私の生き写しのような存在を探していたの。何千何万の人間から、そんな人物を求め続け――そして、たどり着いたの」
嶋田の蛇体がしゅっと伸びて、智歩のくるぶしにまきつく。今までの柔らかく撫でるようなものではなく、ぐっとしめつけるように。液体に浸した試験紙が下から染まっていくように、冷たくて硬い彼女の感触が、肌を通じて全身に染み渡る。
「高崎ちゃんは生まれ変わるのよ。これまでの自分を捨てて、私の後継者になる。そうすれば、高崎ちゃんの夢も叶う。どう?悪い話じゃないでしょう?」
優しくて貫禄のある嶋田の声が、そして彼女の言葉が、智歩の意識を寄せ付けた。
智歩の視界の真正面に、嶋田の顔がくっきりと映った。赤い瞳がめらめらと燃えており、外灯が虫を寄せ付けるように智歩の意識を離さなかった。
「高崎ちゃん。私の夢に、協力してくれない?」
嶋田が語る言葉の一文字ずつが、智歩の頭の中に大きく浮かび上がった。
智歩の歩む先には、いくつもの道があるはずだった。
しかし、嶋田の後を継ぎ、自分の夢を叶える――その道は真っ白な光を放ち、他の道をかき消した。
気が付いたら、自ずと口が開いていた。
「はい、是非ともやらせてほしいです」
嶋田は両手の手のひらを合わせて、にこりと笑顔をうかべた。
「そう!だったら……はい」
嶋田は懐からスマートフォンを取り出すと、画面が見えるようにして智歩に差し出した。
SNSの投稿画面だった。文字列の右下には青い「投稿」ボタンが、くっきりと浮かんでいる。
「ええと……『高崎智歩と申します。嶋田代表の後継者となるプロデューサーを目指して頑張っていきますので、応援のほどよろしくお願いします』…………!? こ、これは一体……?」
「世界中に、高崎ちゃんのデビューを宣言するの」
嶋田はあまりにも優しい笑顔を浮かべた。その背景には、夜景が無数の光を放っていた。
投稿ボタンを押した瞬間、その全ての視線が自分に向けられる――そんな意識が、水銀を流されたように智歩の身体をガチガチに固める。真夏でもないのに、身体中から汗が噴き出る。
「……いや、お言葉ですが、いくらなんでも早すぎませんか……?」
「そんなことないわ。貴女は立派なプロデューサー経験者。それに、1週間での貴女の成長は凄まじかった。遠くないうちに、本格的なメディア出演も始められるはずだわ」
嶋田の冷たい両手が、智歩の頬を挟み込む。自分の体温が、彼女に吸収されていくのを肌で感じた。
「高崎ちゃんには資質がある。あとは、高崎ちゃんの覚悟だけ。高崎ちゃんの手で、”貴女の”物語をはじめるのよ」
智歩は動揺した。まだ覚悟ができていない……そう言おうと口を開いた。しかし、ぐっと言葉を飲み込んだ。
この期に及んで覚悟ができていない?そんなはずはない。私は決めたんだ。立派なプロデューサーになって、夢に近づいて、それで……。
「1日でも早く、夢を叶えたいんでしょう?」
彼女の言葉が、心臓を突き刺した。
一瞬、視界が真っ赤に染まった気がした。
そして瞬きすると、自分の人差し指が、投稿ボタンを押していた。
「おめでとうっ!これで貴女もタレントデビューよ!」
嶋田は甲高い声を出す。2人以外の客はいなくなっていた展望デッキに、その声が響き渡る。
「明日から忙しくなるわよ、高崎さん。社員寮を用意するから、東京で生活すると良いわ。今から手配すれば、明日には部屋を開けられるわよ」
嶋田は生き生きとした様子でスマートフォンで何かの手配を始める。その様子を、智歩は立ち尽くしながら見ていた。
◇
帰路についた智歩は、自宅の最寄り駅にたどり着いていた。
終電直前だったためか、他の利用客はほとんど見かけなかった。人影のない寂しげなホームに秋の風が吹きつけ、木の葉がふわふわと舞っていた。
この駅はもはや生活の一部として溶け込んでおり、目を瞑りながらでも入口からホームに辿り着ける自信があった。そして、自分が菜調さんのプロデューサーになった、思い出の場所でもある。この駅も、明日からは”日常”の存在ではなくなるのだろうか。
そんなことを考えながら智歩は駅の地下道を抜け、地上に顔を出した。
古びた雑居ビル群からは明かりが消えて、廃墟のように映っている。それよりずっと高い場所では、火山の煙のような雲が夜空を包んでいる。その隙間から、かろうじて月の光が漏れていた。
1つの人影が見えた。長髪の黒いシルエットが、静かに風に揺らされていた。
「……智歩」
駅の出口の前に、彼女は待っていた。
時計は12時を過ぎている。彼女には帰宅時間も教えてない。まさか、ずっと待っていたのだろうか。
智歩が何か声をかけようとする前に、切り出したのは菜調だった。
「じきに雨が降る。傘は持っているか?」
「……いえ」
「そうか。なら、これを使って家に帰ると良い」
菜調は黒い傘を智歩に差し出した。それ以外には何も持っていないようだ。マムシだから自分は濡れても良いということだろうか。
「次に会った時に返してくれれば良い」
「……ありがとうございます」
智歩は傘を受け取ると、どこか気まずさを覚えて、手元の傘に視線を向けた。傘はかなり大きく、霊長類の人間が2人入るように思えた。
しかし、傘に向けられた智歩の意識を、菜調の一言が引っ張りあげた。
「智歩、タレントデビューするのか?」
「……見たんですか」
「あぁ」
智歩は思わずうつむいた。無機質な冷たさの灰色が、視界を埋め尽くした。
冷えた空気が音を立てながら、足元に吹き付ける。
「急にどうしたんだ。そんな話聞いていないぞ」
「黙っていたのは……申し訳ないと思ってます」
「謝らなくていい。それよりも、何でタレントデビューだなんて話になったんだ」
菜調と言葉を交わす中で、智歩は強い焦りと恐怖を感じた。その理由が何なのかまでは意識できなかったが、とにかく冷静でいられなかった。
智歩はごくりと唾を飲み、震える拳を握り締めながら口を開いた。
「…………それは、私の夢を叶えるためです」
「智歩の、夢……」
「はい。私は輝きたい。夢を追う姿で、たくさんの人に元気を与えたい。だから、タレントになるんですっ!」
智歩は菜調を睨みながら、荒れた声を絞り出した。
菜調は驚いて目を開く。
「……そうか。智歩がそう言うなら、私は止めない。ただ、1つ聞かせてくれ。それは本当に、智歩の望みなのか?」
「どういう意味ですかっ!?……私が嘘をついているとでも言いたいんですか?」
「最近の智歩は様子がおかしい。ここ数日は、時計を見ながら淡々と事務連絡をするだけだ。まるで、智歩じゃない何かに突き動かされてるみたいだ」
「そ、それは……」
智歩は菜調に何も言い返せない。うつむく智歩の視界に、菜調の蛇の身体が入り込んだ。その瞬間、彼女に強く締めつけられるような感覚を覚えた。実際に締め付けられたのではなく完全な思い込みなのだが、思わず智歩は何もない空間で一歩後ずさり。そこに菜調の追及が喰らいつく。
「教えてくれ、何か困っているのか?!」
「だから、大丈夫です。心配しないでください。……私は忙しいんで、もう帰ります」
智歩は菜調に向けていた視線をそらし、脚を前に進めた。蛇の社会には無縁のハイヒールがかつかつと鋭い音を立てながら、黄褐色の大蛇を横切っていく。
智歩の視界から青い髪が消えた。そこからさらに、何歩か歩いた。それでも智歩の耳に響くのは、かつんかつんという音だけだった。足元の近くから蛇の気配がなくなったのを、風の流れから感じ取った。
その時、冷たくて弾力のある何かが、くるぶしを握り締めた。
脚を止めて振り返ると、菜調が蛇の身体をこちらに伸ばしていた。
黄褐色の蛇体は、乱暴に智歩の脚を締め付ける。蛇体が脚にめり込んで、自分と彼女の境界がわからなくなる。その蛇体から、どくんどくんと菜調の心臓の鼓動が伝わってくる。おおしけの海のように、それは荒ぶっていた。
菜調と目が合った。彼女の楕円状の瞳孔が、レーザーを照射するように自分を捉えた。何層にも重なった黒い雲の下で、透き通った青い瞳だけが輝いていた。
「今の智歩は、私の知っている智歩じゃないっ!」
菜調はどこか必死な声で言い放った。彼女の大きく開いた口の中に、1対の鋭利な牙がはっきりと姿を見せた。脚を締め付ける蛇の身体は震えていた。
そこには、普段の冷静沈着な振る舞いとは程遠い菜調の姿があった。
「どんなことでも良いから、何があったのか私に教えてくれ!私にできることなら何だってするっ!」
菜調の言葉が迫る。聴覚が、触覚が、智歩に力強く語りかけ、手を差し伸べる。
涙でにじむ視界の中、おぼろげに映った菜調の姿が、自分を包み込もうとする。肩の力が抜けて、憧れの存在に身をゆだねそうになる。
その時だった。智歩はフラッシュバックのように、自らの使命を思い出した。
もう菜調さんに依存するのは止めたんだ。
私は、”自分の夢”を叶えなければならない。
智歩は傘を握る力をぎゅっと強めると、潤んだ瞳を力強く開いた。
「放っておいてくださいっ!!!」
智歩は力いっぱいに叫んだ。聞いた者の耳をつんざくように鋭くも、今にも消えそうなほどに掠れた声が、静まった雑居ビル群にこだました。
蛇に拘束された右足を勢いに任せて振り上げると、あっさりと菜調の拘束がほどけた。
蛇の尻尾はぺちゃりと力なく地に付した。細い脚が宙に浮くと、重力で加速したヒールの先端が褐色の鱗を突き刺した。
ぐにゃっとした感覚が、靴を通してかかとに伝わる。それでも菜調は口を結んだまま、蛇体も上半身も動かさず、智歩をじっと見つめていた。
智歩は菜調を踏みつけていた脚を離すと、はぁはぁと息をあげながら、黄色い瞳で菜調をにらみ返した。
「菜調さんに何がわかるんですか。『私の知ってる智歩』って言いますけど、菜調さんは私の何なんですかっ!」
「それは……」
「良いですよね菜調さんは。ずっと昔から迷わずに、夢に向かって努力できてっ!菜調さんは私なんかよりずっと前にいるっ!菜調さんに、ちっぽけな私の気持ちがわかるわけないっ!」
菜調が何か言おうと口を動かすが、それを遮るように、智歩は鼻水で曇った声を絞り出した。
「菜調さんと一緒にいると、私の夢は叶わないんですっ!私は夢を叶えるために、変わらなきゃいけないっ!」
菜調は無言のまま、眼を大きく開けた。青い瞳は、ふらふらと不安定に揺れていた。彼女の口角が力なく下がって、口元に小さな隙間ができる。電池切れの機械のように、彼女の口からは何の音も発せられなかった。
その代わりに、智歩は低い声を放った。
「菜調さん、もう私に関わらないでください」
菜調の顔が青ざめた。彼女は何も言わず、立ち尽くしていた。
「今までありがとうございました。…………菜調さんなら、必ず夢を叶えられます」
智歩は乱暴な手つきで菜調に傘を押し付けると、彼女の返事を待たずにその場を離れていった。
ヒールのかつんかつんという音が遠のくのを、菜調は黙って聞いていた。
◇
智歩はうつむいたまま、夜道を歩き続けた。
両目から滝のように溢れて、自分がどこにいるのかも見えなくなっていた。
ヒールの音が聞こえなくなり、りんりんという虫の鳴き声が寂しく響いた。それと同時に、足元がおぼつかなくなった。
おそらく駅から離れ、土が露出した歩道に踏み入れたのだろう。それでも、私は立ち止まらない。
今ここで立ち止まったら、涙におぼれて沈んでしまいそうだから。
沈む前に脚を持げて、ヒールの先をぐさりと地面に突き刺しながら1歩ずつ進んでいく。私の歩く跡には、まばらな穴がぽつぽつと連なっているはずだ。
それで良い。私は確かに進んでいる。でも、振り返りはしない。私にできることは、進むことだけ。
ぽつり、と鼻先に水滴。
それを合図にして、風呂場でシャワーのスイッチを入れたかのように、大粒の雨が降り注いだ。
「……っ!」
ぬかるんだ地面に、足元をすくわれた。
身体が宙に浮き、ハイヒールが脚の裏を離れた。
重力の感覚が一瞬だけなくなり、次の瞬間に、それが体の上部に襲い掛かる。
そして、目の前の水たまりに体が打ち付けられた。ばしゃんと大きな音が響いた。
少し遅れて、自分よりも何歩か後方から、”ぼとん”と何かが落下する音が聞こえた。
あとは、ざあざあという雨音が、ひっきりなしに続いた。
眼をゆっくり開けると、濁った水たまりに自分の顔が映っていた。
ビジネス用にセットした銀髪は乱れて、びしょ濡れの前髪がだらんと顔を覆い隠している。
メイクは雨で流されて、パレット上で絵具を混ぜた跡のようになっている。
茶色い鏡に浮かんだ化け物の顔を見ていると空しい気分になった。だが、不思議と納得感があった。
この醜い存在が、他でもない自分なのだ。
菜調さんと一緒に得た輝きは、メッキで造られたハリボテだ。
そう自分に言い聞かせながら、大きく擦りむいた膝に力を入れて立ち上がる。
――私は立ち止まるわけにはいかない。夢に向かって進まなきゃいけないんだ!
月の光が消えた夜道を、智歩は進んでいった。
此処がどこかもわからなかったが、それでもひたすら歩き続けた。
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