はためく浴衣
~8月末 夕刻~
ここは、市街地から離れた小さな農村。山の方から、カラスの鳴き声が反響するように聞こえてくる。
普段なら、その鳴き声に促されるかのように、農家の人々各々の家に帰っていく。――だが、今日は特別だ。
人々が向かう先は、山の
山の斜面に沿って造られた石の道を登った先には、絵の具のような青色や赤色の屋台が連なっている。そう、今日はお祭りの日だ。
そして、屋台の周辺には沢山の客。視界に入るだけでも、ざっと30人くらいはいるだろう。夕方の風で冷えた鈍い白色の石畳が、茶色や深緑などの鱗で彩られている。
それも、地元の人間だけではない。祭を楽しむ人の多くは、観光客だ。高齢化が進む村では珍しい若者の姿も多くみられ、中には蛇人以外の客もちらほら見られる。
何しろ、ここは単なる町のお祭りではない。
少し前に”SNSで注目された”崖登りが生で公開されるのだ。
そんな賑やかなお祭り会場からは一歩引いた場所に、銀髪の女性が立っていた。黄色い模様があしらわれた紅色の浴衣からは、すらりと二本の脚が見えている。そんな彼女も、傍からは観光客の1人に見えるだろう。
ただ、彼女――智歩は、ゆったりした袖に包まれた腕を組みながら、感慨深そうにお祭り会場を見つめていた。
「大盛況ですねっ!はじめてここに来た時の景色が嘘みたいですっ!」
智歩は子供のような無垢な笑顔を浮かべながら、隣に立っていた菜調を見やった。
彼女が
菜調は長髪をふわりとたなびかせながら、智歩の方に振り向いた。
「ああ。お疲れ様、智歩」
「……ありがとうございます。私としては、本番中も手伝いたかったんですけどね」
「そう言うな。折角の厚意だ、甘えても罰は当たらないだろう」
「ですね。しかしびっくりですよ、これだけの方に協力していただけるなんて」
智歩は色とりどりの屋台や、運営スタッフが仕事をしているテントを見渡した。
それらに携わっているのは、地元農家の皆様だ。『集落の外の若者に尽力してもらった以上、せめて本番は地元住民の力でやり遂げたい』と、彼らから申し出を受けることになったのだ。結果、以前のものを大きく上回る規模の祭が実現するとともに、智歩達はそれを客として楽しむことになった。
「……それに、智歩は十分に頑張った」
菜調は小さく口角を上げながら手に持っていたラムネ瓶の1つを、智歩に手渡す。
瓶の表面はひんやりとした水滴で濡れていて、触っただけで手の平に冷たさが張り付いてくる。そんな瓶の蓋に手を回しながら、智歩は少し遠くにある神社の本殿を見やった。
「ううん、本当に頑張ったのは青井さんです」
智歩の視線の先には、白と赤の装束を纏った蛇人の少年がいた。彼は忙しそうにお祭り会場を駆け回り、屋台の店員をしている地元農家の方々と話をしている。
その中で彼は常に爽やかな笑顔を浮かべており、時々オリーブ色の尻尾をぶんぶん振って、はしゃぐ様子を見せた。そんな青井を見やりながら、智歩は明るくさっぱりした口調で話す。
「凄いんですよ、青井さん。私が15歳――彼と同い年の時とは比べ物にならないくらいしっかりしていたんです。神社の歴史や経営の知識も大人顔負けで……。彼と会議する度に、驚かされちゃいました」
「そうだな。パフォーマンスの魅せ方についても、彼はしっかり考えていた」
「青井さんは、大切な場所を守りたいという想いをずっと諦らめずに、たくさんの努力を積み重ねてきました。今、こうして神社にたくさんの人の笑顔が溢れているのは、青井さんが頑張った成果です」
青井が観光客らに頼まれて、彼らと一緒に写真を撮影していた。その姿には、何か大物の片鱗が現れているといっても過言ではない。
そんな青井をじっと見つめる智歩。彼女の意識は、ほとんど青井に向けられていた。
それを、菜調の一声が呼び戻した。
「確かに、最大の功労者は青井だろう。だが、彼がここまで注目されたのは、智歩のプロデュースの成果だ。誇るべきだ」
菜調は、それ以上語ることは無かった。だが、彼女の一言には、力強い”説得力”があった。
それを感じ取った智歩は、菜調の言葉に大きな笑みを浮かべて答えた。
「……そうですねっ!」
菜調が頷いたのを確認してから、指に力を入れてラムネ瓶の蓋を開ける。
”ぷしゅっ”と爽快感のある音が弾く。そのままラムネを喉に流し込むと、耳だけでなく身体全体に清涼感が溢れた。
「ぷはぁ~……。そうっ、私は頑張ったっ!高崎プロデューサーの手腕に乾杯っ!」
「乾杯は飲む前に言うんじゃないのか?」
「うぅ……。良いじゃないですか、今日くらい頭空っぽにしてもっ!」
智歩は顔を真っ赤にすると、顔の熱を急いで冷まそうとするかのように、ラムネを半ば強引に喉に流し込んだ。
炭酸水が濁流のように喉になだれ込み、一瞬、息が苦しくなる。瓶の中のビー玉を間違って飲んでしまったのかと勘違いしてしまったほどだ。
思わず首の付け根をとんとんと叩き、喉の中を開放して、ぷはぁと一息。
高ぶった気持ちも落ち着いたところで、智歩は再び、菜調の方を見やった。
「でも、重要な功労者はもう1人いますよっ」
智歩は、藍色の袖から出た菜調の手を、そっと掴んだ。変温動物である彼女の手は、ラムネ瓶の冷気に影響されて石のように冷たくなっていた。
「青井さんの背中を押したのは、他でもない、菜調さんですからっ!」
智歩は菜調の手をしっかりと握ると、彼女の腕を持ち上げた。浴衣がふわっと宙を揺れ、藍色の布に描かれた波の模様が踊る。
その時、菜調と眼が合った。彼女の青い瞳は真ん丸だった。
少し恥ずかしくなって、視線を遠くの青井の方に向けてから、智歩は話し始めた。
「青井さん、会議の時にはいつも、嬉しそうに菜調さんのことを話してくれるんですよ!『菜調さんが勇気をくれたからボクは頑張れている、菜調さんはボクの憧れだ』……って!」
「ああ。……正直、かなり嬉しい」
菜調は自分のラムネ瓶を開け、少し口を付けてから話しを続ける。
「それに、青井は私のダンスを参考にしてくれたみたいなんだ」
「確かに、崖から飛び出して身体を捻るところとか、少し似ていましたよね」
「ああ。『何度も動画を観ながら練習した』と言ってくれたんだ。……嬉しかった」
菜調は紫色の空に目をやった。智歩も釣られるように、空を見上げる。
淡い紫色に染まる空には、提灯の橙色が
「私は10年以上、自分と同じようなパフォーマンスをする人には出会わなかった。道なき道を切り開く、孤独な戦いだったんだ」
「菜調さん……」
「でも、今は自分達が描いた道が、誰かの道しるべになっている。それを思うと、感慨深くてな……」
菜調は、まだら状の雲がかかった空を眺めながら、小さく笑った。
彼女は冷静な態度だが、その喜びは本当に大きなものだろう、と智歩は想像した。菜調とは数か月一緒にいただけで、それまでの彼女の苦労は目にしていない自分ですら、身体の芯から暖かくなるような嬉しさを覚えるのだから。
提灯の橙色の光に優しく照らされながら、智歩は優しく菜調に微笑んだ。
しばらく2人は無言で見つめあった後、話題を動かそうと智歩が口を開いた。
「……菜調さんも嬉しかったんですね」
「変なことか?」
「だって、最初に青井さんと話した時、菜調さん全然嬉しそうにしていないというか……すっごく冷たい感じでしたからっ。こんな感じにっ!」
智歩は菜調にジト目を向けながら、冷たいラムネ瓶を彼女の頬に押し付けた。もちもちした彼女の頬が、むにっと瓶で凹んだ。
菜調は智歩の手を振り払い、一呼吸おいてから口を開いた。
「急なことで、あまり実感が湧かなかったんだ。それに、あの時の青井は自分の危機を話していた。そんな状況では、喜ぶ方に意識が向かないだろ」
「……確かに、私も”神社がピンチ”という話題が出てからは、喜ぶ方に意識は向きませんでしたね。それもそうか」
智歩は菜調に向けていた視線を、手に持っていたラムネ瓶の方に移す。彼女は瓶を目線の高さまで持ち上げると、それを小さく振った。瓶の中のガラス玉が、ころころと綺麗な音を立てる。
冷たいガラスの表面は、提灯の光で
「私は、菜調さんの冷静沈着でストイックなところが大好きですっ。……でも、それとは別に、嬉しいことがあったら、それを菜調さんと一緒に喜びたい気持ちもあるんです」
話しながら、智歩は左手に持ったガラス瓶を横にスライドさせる。
菜調の青い瞳を、青色の髪を、小さく開いた口の中に見える牙を、肉眼で捉える。
「私にとって菜調さんの躍進は、自分事みたいに嬉しいんです。そして、……ワガママかもしれないけど、その喜びを菜調さんと分かち合いたい。だから、菜調さんから”嬉しい”という言葉が聞けて、ちょっと嬉しかったんです」
智歩はガラス瓶をポーチの中にしまうと、菜調の冷たい手をぎゅっと握った。
菜調はやはりポーカーフェイスで、今この場でも表情を大きく動かすことはない。ただ、ぱちぱちと瞬きしながら、透き通った青い眼でじっとこちらを見つめている。
そのまま無言が続き、智歩はなんだか恥ずかしさを覚えた。
周囲に意識を向けてみると、観光客らが一斉に移動を始めているのが見える。この祭りの目玉イベントが始まるのだろう。
”全部やりきった”みたいな雰囲気で話をしていたが、メインディッシュはこれからなのだ。
「そろそろ時間みたいだな」
「ですねっ。行きましょうっ!」
智歩は菜調の手を離さないまま、彼女を引っ張って駆け出す。下駄が石の床を叩いて、かたかたっと音を立てる。
妖しい紫色に染まった空間で、紅と藍色の浴衣が交わるように、はらりと揺れた。
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