青井将晴
天を貫くような岩壁。青井はそこで、崖登りの
「では行きます~。しっかり見てくださいねぇ~」
青井は崖に向かって小さくジャンプして飛びつくと、腰回りの鱗を石の隙間に食い込ませる。
それと同時に5m以上の蛇体を蛇行させ、岩肌の凹凸にぴったりと食い込ませる。まるで、稲妻が走るようだった。
彼は蛇体の下半分にぐっと力を入れ、イカリを突き刺したかのように身体を固定。
並行して、押したバネから手を離すように、蛇体上部を突き上げる。少年の人体が、ぐんと高く持ち上げられる。
間、彼の両眼は絶えずに岩壁の隙間を探す。
凹面を2つ捉えると、そこに槍を突き立てるがごとく左右の腕を伸ばす。
ぐんと伸びた腕が、岩をがっちりと掴む。その反動が、上半身が持ち上がる勢いにブーストをかける。
そして、腕が岩を掴むのと同時に、身体の下半分を引き上げる。蛇体が岩の凹凸を縫いながら、上へ上へと昇っていく。
――この一連の動きが、数回の瞬きの間に行われていた。
彼の崖登りは、本質的には四肢を使ってハシゴを登るのと大きく変わらなかった。
『身体の下部で岩にしがみついている間に、上部を持ち上げる』『身体の上部で岩に貼りつきながら、身体の下部を引き上げる』――ひたすら、この2つの繰り返しだ。
当然、この2つは同時に実行できない。身体の上も下も同時に動かしたら、そのまま地面に急降下だ。
しかし、彼はこの2つの動作のインターバルを、極限まで減らしていた。それどころか、身体の一部を持ち上げる間に、もう片方を動かす準備をしているのだ。
さらに、彼は全身を動かすのと並行して、クライミングのルート計算もしていた。
壁面の形状を的確にとらえ、腕や蛇体――全長6mの身体の各部位で、壁をどのようにつかみ、どのように身体を食い込ませるかを判断していたのだ。だから、身体をどう動かすか考えるために立ち止ることもなかった。
その結果、彼の崖登りは、”常に全身が動いている”かのように見えた。
しかも彼が動かしているのは、全長6mの巨躯である。しかも、その大半は蛇の身体。その動きのパターンは、腕にある2,3個の関節を動かすのとは比べ物にならない。そんな身体の節々をどう動かすか、絶え間なく判断しているのだ。
それなのに、小さなサルがぴょんぴょんと木を登るかのように、彼は身軽に崖を登っていく。むしろ、下半身は崖の表面を這っているように見えるから、”ぴょんぴょん”という緩急すらない。
そう、彼の崖登りは、あまりにも”滑らか”なのだ。
彼が壁を登る様子は、蛇が平面を這うのと何ら違いがないように見えていた。川の水が水路に引かれるように、蛇体は岩の隙間を捉えて滞りなく蛇行する。
彼の前では、上と下が反転していた。鉛直が水平になっていた。
無重力状態――いや、彼が自分に都合が良いように、重力の方向をを操っているように見えた。
この世の理を、彼はことごとく無視していたのだ。
30秒もしない間に、蛇の少年は40mの崖の頂点に到達。
垂直に移動しているはずなのに、短距離走のような時間の感覚だ。
◇
少年は勢いをそのままに、崖の上から大きく飛び出す!
壁を蹴るように体を折り曲げる。
深い森の中では拝めないはず青空が、僅かな間だけ彼の視界を埋め尽くす。
天と地が逆転。
頭に血が逆流して、にわかに目眩がする。その中でも、眼をこじ開けてミニチュアのような地表を捉える。
風圧が散弾銃のように顔を叩くが、そこには構わず、意識を研ぎ澄ませる。
彼の意識の先は、壁の形状だ。
往路の記憶を引っ張り出し、それを視界で捉えた情報で補完。
崖の立体な地形図を、脳内で組み立てる。
風圧で眼を開けるものもままならない。それでも、迫る崖の形を必死で捉える。
コンピュータグラフィックを出力するような勢いで、脳内の地図を書き換えていく。
その情報をフル活用し、蛇体を岩に擦りつけて減速。
ブレーキをかける距離を稼ぐべく、できるだけ途切れず縦に長い面を探す。
強い抵抗がかかるように蛇体を蛇行させて、壁へと叩きつける。
腹の鱗が擦れ、所々に傷ができるのを感じる。
それでも、抵抗を稼がなければ地面に叩きつけられて粉々だ。
歯を食いしばって、壁にしがみつく。
崖上に凸面が出現する直前まで身体を擦りつけてから、ギリギリで蛇体を曲げて迂回させる。
当然、蛇体は頭の後ろにある。自分の蛇体がどうなっているかは、視覚では確認できない。
頭で描いた地形図と、経験からなる感覚だけが判断材料だ。
動かすべき蛇体は、およそ5m。上半身の5倍以上と言っても良い。
それでも的確に、地形に沿って身体を曲げる。
小さな草花を認識できるまでに地表に近づくと、蛇体全体にぐっと力を入れる。
全身の筋肉が圧縮され、こわばるような感覚。
蛇体の下部をシャクトリムシのように曲げ、縮こませる。
緑色のつやつやした表皮に、何重ものしわが浮かび上がる。ここまで、1秒。
そして、蛇体で強く大地を蹴る!
腰を力いっぱい捻って、5mの蛇体が大きな車輪を描く。
人体と蛇体の上下が逆転。
頭の中で再び血がぐるぐるとかき混ぜられるが、まだ気は抜けない。
天に向かって縦長になっている蛇体を折り曲げて、水平方向に展開する。
空中でとぐろを巻くかのように。
着地面積を増やして、一点への衝撃を減らすためのテクニックだ。
菜調も大ジャンプの際には意識している。
ドシンと響く衝撃音。
巻きあがる砂煙が、少年の美しい緑の身体を隠す。
煙が晴れると、青井が舌を出しながら地面に寝そべっていた。
完全にバテた様子だった。
はぁはぁと粗い音を立てて、必死に息をしている。
「ど……どうでしたか……ボクの儀式ぃ……」
「凄かったです!あんな大迫力な壁登りがあるなんて……っ!」
「ああ。良かった」
「よかった……です……お二人とも…………喜んでぇ……もら……えて……」
「水っ!お水飲んでくださいーっ!」
青井は手に持つ水筒を殆ど鉛直に傾ける。
滝のように、彼の喉に水が流れ込む。
「ぷはぁ……ありがとうございます……」
彼は長い身体を『∞』のように交差させると、自分の身体にちょこんと腰掛けた。菜調もそれに続いた。
智歩も近くの手ごろな岩を探し、砂埃を払ってから、脚を閉じて座る。
「青井さん、あんな高い壁を登れるなんて凄いですっ!何か秘密があるんですか!?」
眼をキラキラさせながら智歩が迫る。
休憩して落ち着きを取り戻した少年は、のんびりと腰近くの蛇体を持ち上げ、両腕で抱き抱える。
彼は朗らかな笑みを浮かべながら、腹板――いわゆる”蛇腹”と呼ばれるお腹の鱗を見せつけた。
クリーム色の横長な鱗が、てかてかと光沢を放つ。
滑らかなシリコンのような気持ちいい触覚が、触らずとも伝わってくるほどだ。
彼は、そんな鱗の端を指さした。お腹の鱗と、背中の褐色の鱗の、境目に当たる部分だ。
「ボク達はお腹の鱗に突起があるんです~。これをフックみたいに壁に引っかけられるんですよ~」
彼のつやつやのお腹を凝視すると、確かに腹板の端が小さく出っ張っていた。
ただ、それ以上に智歩の注目を集めるものがあった。
無垢な笑顔を浮かべる少年――その腹板には、無数の傷が刻まれていた。まるで、年季の入った船の船体のようだ。
腹板の半分以上の面積は、チョークをまぶしたかのように白くかすれていた。それを横切るように、カッターで切られたような細い切り傷も点在している。岩の凸面が擦れたのだろうか。
そして、3、4つの鱗を突っ切るような、大きな古傷も見られた。何かで抉られた跡のようだ。もしかしたら、何回も脱皮してもなお、塞がらないのかもしれない。
菜調の鱗も全体的に傷だらけだが、お腹の傷に関しては、青井は菜調すら上回っていた。
少年は何事もないように、にこにこと笑顔を浮かべている。しかし、その口に代わって、鱗が彼の苦労を物語っていた。
それを前にした智歩は、ドクン、と胸を打たれた。
よく考えたら、いくら腹板の隆起も『これさえあれば、誰でも青井のように壁を登れる』というような便利アイテムではないはずだ。
壁に張りつくことはできても、そのまま身体をスライドさせることはできないのだ。壁上での滑らかな移動は、鍛錬の賜物に他ならないのだろう。
そこまでの鍛錬を重ねても、彼には守りたい伝統がある。――彼にはどうしても叶えたい夢がある。
――だったら、私は、その力になりたい。
智歩は”がばっ”と顔を持ち上げて、青井の顔をじっと見つめた。
その真剣な表情に、おっとりした青井も思わず口元を引き締め、唾をのむ。
だぼだぼした紐がぎゅっと結ばれたかのように、一瞬で場の空気が変わる。
「私……青井さんの力になりたいですっ!」
智歩は中腰になると、両手で青井の”太もも”辺りの蛇体をがしっと掴んだ。金属みたいなすべすべの鱗は、細かい傷と砂利の付着でざらざらしていた。
少年は緑色の瞳をうるうるさせて、智歩と菜調を交互に見やる。
「良いんですか……?」
「も……勿論、菜調さんのプロデュースが最優先ですけど……。そ、それでも、できる範囲でっ!全力でお手伝いさせてくださいっ!」
菜調もどこか満足気だった。彼女は腕を組んだまま眼を閉じて、口角を小さく上げた。
「それでこそ智歩だ」
「えっ……そうなんですか……?」
「ああ。そうだ」
菜調は小さく笑うと、困惑する智歩を放置して青井の方を見やった。青い眼がぱちりと開き、視線を下ろして青井を見やる。今度は睨みつけるのではなく、優しい眼で。
「改めて、私も協力しよう。パフォーマンスのことなら私に聞いてくれ」
「ありがとうございます、2人とも……っ!」
◇蛇足のコーナー◇
「アオダイショウには、お腹の鱗の両端に”キール”という隆起がある。これを木の凹凸に引っかけて登るんだ」
「木登りが得意ということは、普段は木の上にいるんですか?」
「ああ。常時というわけではないが、樹上を好む傾向があるな。ちなみに、マムシは基本的に木登りしないぞ」
「なるほど……。あっ、アオダイショウが鳥の卵を食べるってのは……!?」
「察しが良いな。木の上が行動範囲だから、鳥の巣にもたどり着ける。だから、卵を食べることもできるんだ。ただ、彼らも卵を好んで食べているわけじゃない。ペットのアオダイショウには、多くの蛇と同様にマウスを与えるのが推奨されているぞ」
「あくまで食料の選択肢の1つ、ということなんですね」
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