EP 2
赤ん坊という名の職業
リアン・シンフォニアとしての生を受けて、一日が経過した。
意識は青田優也のまま、しかし体は生まれたての赤ん坊。そのギャップは、想像を絶する困難を俺――リアンにもたらしていた。
(参ったな…)
柔らかな産着に包まれ、ふかふかのベッドに寝かされている。天国のような環境だが、リアンにとっては牢獄も同然だった。手足は鉛のように重く、意思とは無関係にかすかにピクピクと動くだけ。首に至っては、ぐにゃぐにゃで全く据わらない。
25年間、自分の思い通りに動いてきた肉体を失うということが、これほどの無力感とフラストレーションを伴うとは。
「あらあら、リアン。お腹が空いたのかしら、それとも…あらまぁ」
優しい声と共に、ふわりと体を持ち上げられる。母親のマーサだ。彼女の動きは滑らかで、一切の不安を感じさせない。
その安心感も束の間、リアンはこれから行われるであろう行為を察知し、内心で絶叫した。
(お、おしめ交換タイム…!)
テキパキと慣れた手つきで、汚れたおしめが外されていく。羞恥心で精神が焼き切れそうだった。前世では三星レストランの厨房を仕切っていた男が、今やなすがままに股を晒している。
「はい、きれいになりましたね。気持ちいいでしょう?」
マーサは慈愛に満ちた笑みを浮かべている。悪気がないのは分かっている。分かっているが、それでも!
(はぁ…我ながら情けない。いや、赤子なんだから仕方ないか。そうだ、これも試練だ。この屈辱に耐え抜いてこそ、二度目の人生を謳歌する資格が得られるというものだ…!)
リアンが一人、壮大な覚悟を決めていると、今度は巨大な影が覆いかぶさってきた。父親のアークスだ。
「おぉ、リアン。俺が抱っこしてやろう」
ひょい、とアークスがリアンを抱きかかえる。母親とは違う、硬く、ごつごつとした腕の感触。少し不安定だが、その力強い腕は不思議な安心感を与えてくれた。リアンは思わず、父親と母親の顔をじっと見比べてしまう。これが、俺の新しい両親か…。
「どうした? さっきまで少しぐずっていたのに、急に大人しくなって」
アークスの屈託のない一言に、リアンの思考が凍り付いた。
(ま、不味い!)
そうだ、赤ん坊はもっと泣いたり笑ったり、感情をストレートにぶつける生き物のはずだ。それなのに俺は、この状況を冷静に観察してしまっていた。元A級冒険者の二人だ。その洞察力は常人のはずがない。このままでは「この赤ん坊、何かがおかしい」と感づかれてしまうかもしれない。
(泣け、俺の体! 今すぐ全力で泣くんだ! 赤ん坊らしく振る舞うこと、それが今の俺に与えられた最初の『仕事』だ!)
リアンは、腹の底からありったけの力を振り絞った。
「ふ、ふえぇぇ……ウェーーーーーン!!」
部屋中に響き渡る、渾身の泣き声。あまりのやかましさに、一瞬、自分で自分の声に驚いてしまうほどだった。
その声に、誰よりも早く反応したのはマーサだった。
「貴方! リアンが嫌がってるじゃないですか! きっとそのごつい腕で強く抱っこしすぎたのよ!」
「い、いや、そんなことは…! 違うんだ、マーサ!」
「言い訳はいいから、早くリアンをこっちへ!」
元『閃光剣』のアークスも、愛する妻の剣幕には敵わないらしい。すごすごとリアンをマーサに手渡す。その姿は、少しだけ不憫だった。
「よしよし、怖かったわね、リアン。もう大丈夫よ」
マーサはリアンを優しく抱きしめ、ゆりかごのように体を揺らしながら、子守唄を歌い始めた。それは、この地方に古くから伝わる、穏やかで優しいメロディ。
女神の声とは違う、母の声。その響きは、リアンの張っていた精神の糸を、ゆっくりと、しかし確実に弛緩させていく。
(あぁ…なんだか、眠いな…)
前世の記憶を持つ理性が、赤ん坊の肉体に備わった本能的な眠気に抗えない。温かい腕の中、心地よい歌声、そして全力で泣いた後の疲労感。まぶたがどんどん重くなっていく。
(これも…仕事のうち、か…)
それが、リアン・シンフォニアとして過ごす、波乱に満ちた一日の、安らかな終わりだった。
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