第四話:それぞれの道と新たな展開
高校の卒業証書は、過去を閉じるものではなく、未来のページに挟まれるしおりだった。
フグ虎と夏ふぐのかつて火花を散らしていた言葉の応酬は、今では遠く、静かな残響となっていた。
互いの生活は違う軌道を描きながらも、その名だけは、心の奥で消えることなく灯り続けていた。
◇◆◇◆
夏ふぐは、生物学の名門大学の門を叩き、魚類分類学の世界にその身を投じた。
ホルマリンの匂いが染みついた標本室では、冷たいガラス越しに、過去の命が静かに眠っていた。
古びた洋書のページをめくるたび、紙のざらつきが指先に知識の重みを残した。
教授の講義に耳を傾けながら、その思考は常に世界の未踏の河川へと飛んでいた。
夏ふぐの研究テーマは、既存の分類体系の再検証。
過去の論文に潜む誤記や、曖昧な定義を一つひとつ洗い出し、DNA解析と形態学を突き合わせながら、分類の再構築を試みる。
時には、権威ある論文に異を唱えることもあった。
「この属の定義は、もはや時代遅れ」――その初稿に記された一文は、指導教官の眉をひそめさせたが…やがて学会誌に掲載され、若手研究者の間で静かな波紋を呼んだ。
静かな知的好奇心と、一度食らいついたら離さない執念。
夏ふぐというハンドルネームは、やがて若手のホープを指す固有名詞として、学会の片隅で囁かれるようになっていた。
その名は、分類の迷路に光を差す者として、少しずつ確かな輪郭を持ち始めていた。
◇◆◇◆
一方、フグ虎は地方の農学部に進み、水産養殖という、より生々しい生命と向き合う道を選んだ。
「知識は、この手で、この肌で感じてこそ、真実になる」
――そう信じる彼の大学生活は、実験と繁殖に明け暮れる日々だった。
講義だけでは飽き足らず、彼は実家の土地に自費でビニールハウスを建てた。
そこは、淡水フグのためだけに設計された、静かな聖域。
空調、水質、照明――すべてを独学で組み上げ、命を繋ぐためのシステムを一から構築していく。
彼が完成させた熱帯の環境では、季節を問わず、新しい命が静かに、しかし確かに誕生していた。
そしてまた、ある夜。
水温を微調整しながら、彼は孵化(ハッチアウト)の瞬間をじっと見つめる。
卵の殻がわずかに震え、命が殻を破って水中に溶け出すその一瞬――
彼は、息を呑みながら、そっと呟いた。
「……生きろ」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、水槽の中で生まれたばかりの命と、彼自身の胸の奥で脈打つ何かに、静かに響いていた。
顔も、本名も、性別さえ知らない。 だが、互いの存在は、常に日常の片隅にあった。
◇◆◇◆
そんなある日、夏ふぐの世界を支えていた研究の土台が、静かに、しかし確実に軋み始めた。
婿養子である父の事業は破綻し、母の財産も底をついた。
実家からの支援は途絶え、家の中は、激しい口論と、それ以上に重たい沈黙が交互に降り積もる場所へと変わっていった。
「電気代幾らかかってると思ってるんだ!魚の研究より、バイトでもして金を入れろ!」
父の苛立った声が、夏ふぐの背中に突き刺さる。
その言葉に反論する気力もなく、ただ、歯を食いしばるしかなかった。
水槽の数を減らす――それは、ただの設備整理ではなかった。
一つずつ、電源を落とすたびに、部屋の空気が冷えていく。
水面をそよぐ波が消え、泡のはじける音が止まり、静寂が支配する。
生き物たちの目が、何も知らずにこちらを見つめている。
「ごめん」
と呟いても、誰にも届かない。
手を伸ばすたび、指先が震える。
水槽のガラスに触れると、冷たさが骨まで染みた。
まるで、自分の夢が、ひとつずつ冷却されていくようだった。
この家の経済状況という濁流に、自分の未来が飲み込まれていく。
研究のために集めたデータも、飼育記録も、命の軌跡も――
すべてが、家庭の経済という現実の前に、無力だった。
◇◆◇◆
その頃、フグ虎のビニールハウスは、彼の情熱だけを養分にして、外界から隔絶された進化を続けていた。人の手によって作り上げられた、完璧な熱帯。自動制御された温湿度が肌にまとわりつき、水耕栽培の技術を応用したろ過システムが、無音で水を磨き上げる。
それは命を育むためだけに最適化された、閉じた小宇宙だった。
大学教授が見れば舌を巻くであろうその成果を、しかし彼は誰にも見せなかった。
「……でも、あいつにだけは、教えたくねえ」
その言葉は、呟きというにはあまりに重く、祈りというにはあまりに尖っていた。
それは、夏ふぐという唯一絶対の座標に向けられた、彼の存在証明そのものだった。
負けたくない、という単純な意地が、いつしか彼を孤独な求道者へと変えていた。
秘密の王国。語られることのない成果。
その全ては、たった一つの名前のためにあったのかもしれない。
彼の心の片隅で、消えることのない灯りのように、「夏ふぐ」という名前がいつも揺らめいていた。
◇◆◇◆
そして、運命の転機は、訪れた。
夏ふぐは、教授に同行し、ラオス北部のフィールド調査に参加していた。
熱帯とはいえ、ここまで北上すると朝の空気は肌を刺すように冷たい。
鬱蒼とした森の中、地元の漁師を案内人に、ぬかるんだ斜面に足を取られながら、名もなき渓流を遡っていく。その、瞬間だった。
冷たく澄み切った水の中で、何かが視界の端をよぎった。
流れの速い浅瀬、光を乱反射させる石と石の間に、見慣れない斑紋を纏った一匹の淡水フグが、川底に張り付くように息を潜めていた。
「……これは、まだ記載されていない種だ」
心臓の鼓動が、耳元で鳴り響く。
脳の奥が、じわりと熱を帯びる。その場に立ち尽くしたまま、小さな命が秘めた、数千万年という進化の物語に心を奪われていた。
その発見は、帰国後、教授との共同執筆によって論文となり、学会に鮮烈な衝撃を与えた。
発表は喝采を浴び、専門誌の表紙を飾る。
SNSを通じてそのニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、「Natsufugu」の名は、世界中の研究者が知るところとなった。
◇◆◇◆
その知らせを、フグ虎は、スマホの画面越しに見つめていた。
「……やられたな」
漏れたため息には、不思議な響きがあった。
それは完全な敗北感でありながら、同時に、胸のすくような誇らしさでもあった。
「……ほんとに、すげぇや。あいつは」
手元の水槽では、彼が孵した稚魚たちが、懸命に水をかいている。
フグ虎は、その小さな命たちに語りかけるように、静かに呟いた。
「でもな、負けねえからな。俺は俺のやり方で、お前たちの全部を極めてみせる」
それはもう、悔しさからくる言葉ではなかった。
たとえ歩む道が違っても。極める方法が違っても。
学究の光と、生命を育む光。それぞれが違う輝きを目指しているのだとしても。
その道の先で、いつか並び立てる日が来る。
そう信じられるだけの絆は、もうとっくに、二人の間に芽吹いていたのだから。
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