第五話:夜明けのSOS、雨を裂く轍
その日、東京は冷たい雨に濡れていた。
高層住宅が鉛色の空を切り取る街、世田谷。その一室で、夏ふぐは膝を抱え、世界の音から耳を塞いでいた。スマホの通知は、もう何時間も前に意味を失っている。部屋の静寂をかき乱すのは、命を維持するための、いくつかの水槽が発するかすかなモーター音だけだった。
一つ、また一つと、タイマー制御された照明が消えていく。暗闇に沈んでいく水槽。経費を切り詰めるため、数を減らし、水換えも限界まで引き延ばした水槽。その濁り始めた水の中、大切なフグたちの輪郭すら、涙で滲んだ視界の中ではぼんやりとしか見えなかった。
『明日までに出ていけ』
別れ際に投げつけられた父の言葉が、ガラスの破片のように心に突き刺さっている。婿養子として家に入り、その全てを食い潰した父。すがるように助けを求めた娘に、母が放った言葉。
『あなたなんか、いなければよかったのに』
それは、音のない衝撃だった。魂が、砕ける音がした。
「あなたたちとも、お別れだね。……ごめんね」
声にならない声が、喉の奥で悲鳴に変わる。
研究のために、人生の全てを懸けてきた。バイトをいくつも掛け持ち、眠る時間を削って学費を稼いだ。研究室では誰よりも遅くまで残り、この小さな命たちの進化の謎に光を当てようと、ただそれだけを信じて生きてきた。
その命を、『捨てるか、川に逃がせ』と、家族は言った。
「できるわけ、ない……」
冷たい背中。無慈悲な瞳。信じていた場所が、世界で最も居場所のない荒野と化していた。
──それでも。
このまま、全てを終わらせてはいけない。
震える指で、アドレス帳を開く。スクロールされる名前の羅列は、誰一人として、この絶望を託せる相手ではなかった。閉じては、開く。その無意味な反復の先で、ふと、一つの名前が稲妻のように脳裏をよぎった。
いや、一人だけ、いる。
何百と繰り返した、あの不毛な舌戦(レスバ)。罵倒と反論。けれど、その言葉の棘の奥には、いつも本気の熱があった。ディスプレイの向こう側で、ただ一人、ずっと同じ熱量で向き合ってくれた相手。
「……フグ虎」
彼なら。あの誰よりも頑固で、誰よりもフグへの愛情が深い彼なら。この子たちを、ただの「モノ」としてではなく、命として扱ってくれるはずだ。
祈るような気持ちで、メッセージを打ち込んでいく。一文字打つたび、プライドが崩れて涙に変わった。
『突然のご連絡、失礼します。家庭の事情で、淡水フグを全て手放さなくてはならなくなりました。期限は、明日の朝です。誠に勝手ながら、この子たちを託せるのは、あなたしか思いつきませんでした』
送信ボタンを押した瞬間、堰を切ったように涙が溢れ、スマホの画面に落ちた。
返信は、一分も経たずに届いた。
『今から行く。住所教えろ』
たった二行の、飾り気のない命令文。その無骨な優しさに、画面の光に照らされながら、安堵の涙が一筋、静かにこぼれ落ちた。
◇◆◇◆
その夜、富山県砺波市の山間を、一台の軽トラックが猛然と駆け抜けていた。
助手席に積んだ大型クーラーボックスが、カーブのたびに鈍い音を立てる。行き先は、東京・世田谷。ナビゲーションが示す到着予定時刻は、無情にも夜明けをとうに過ぎていた。
「んなもん、ぶっちぎってやるよ!」
舗装も途切れる峠道を抜け、高速道路へと合流する。アクセルを、床まで踏み抜いた。
頭の中にあるのは、託されたフグたちのこと。そして、顔も知らぬ好敵手のこと。
あいつが、あの夏ふぐが、誰かに頭を下げてまでフグを手放す。尋常な事態であるはずがない。SOSを送ってきたということは、まだ希望を捨てていないということだ。
「夏ふぐ……っ、待ってろよ!」
降り始めた雨が、フロントガラスを激しく叩く。ワイパーの動きさえもどかしく、彼はただ前だけを見据え、闇を切り裂いて走り続けた。
薄明かりが住宅街を照らし始める頃、軽トラックは悲鳴のようなブレーキ音を立てて、指定された住所の前に滑り込んだ。まさに、約束の時間の数分前だった。
エンジンを切り、運転席から転がり出たフグ虎は、玄関の前に立つ人影に気づいて、息を呑んだ。
「……え……女……?」
想像していたのは、理屈っぽくて、少し神経質そうな男の姿だった。
だが、目の前にいたのは、朝の淡い光をその身にまとい、凜とした静けさでこちらを見つめる、一人の女性だった。
ディスプレイというデジタルヴェールの向こうにいたはずの“夏ふぐ”が、生身の人間として、そこに立っていた。
ほんの一瞬、時間が止まる。
視線が、交わった。
その瞬間、何百キロと何年もの歳月を隔てていた二人の世界が、ようやく一つになった。
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