第三話:水槽と論文、交わらない視線
季節は巡り、俺たちは高校生になった。
制服の詰襟はまだどこか窮屈で、世界は中学の頃よりも少しだけ広がったように見えた。
だが、ネットの向こう側にいる夏ふぐとの見えない舌戦(レスバ)だけは、何一つ変わることなく続いていた。
いや、むしろその熱量は増していたかもしれない。
夏ふぐの知識は、まるで深海の水圧に耐えるように密度を増し、そのSNSのタイムラインは一個人の趣味の領域を遥かに逸脱していた。
俺のサイトには国内の飼育者からの質問や交流が絶えなかった。
その状況が、俺のプライドを密かに満たしていた。
……俺は、あいつみたいに論文は読めない。
けど、誰かが俺を頼ってくれる。
それだけで、どこか救われていた。
対照的に、夏ふぐの発信は海外のフォーラムや研究者を向いており、日本人とのやり取りは少ない。
『東南アジア産個体群におけるmtDNAマーカーのハプロタイプ多型について。
現行の属分類には再検討の余地がある』
『この未記載種は、形態学的に近縁種と著しく相違する。
新属として提唱すべきかもしれない』
その投稿は、まるで水槽の底から響くソナーのように、静かに、しかし確かに、専門家たちの耳を打っていた。
英語論文の引用は日常茶飯事。
時には分類学の祖、リンネが用いたラテン語の語源まで遡って持論を展開する。
それは、高校生のSNSというには、あまりにも異質で、学術的な熱を帯びた、孤高の発表会だった。
対する俺は、とっくに学術論争の白旗は上げていた。
いや、戦う土俵を変えた、と言うべきか。
「いいか、フグは論文で語るもんじゃねえ。殖やして、繋いで、それで初めて語れるんだ」
俺は、実践という名のフィールドで勝負を挑んだ。
SNSには、水槽の中で繰り広げられる生命のドラマを切り取った写真を並べる。
宝石のような卵が産み付けられる瞬間、水温計のわずかな目盛りと睨み合い、餌の量をマイクログラム単位で調整する日々。
そこには、論文の中には決して記されることのない、生きた知識が溢れていた。
『カリノテトラオドン属4種のブリーディングに成功!』
『〇〇種、pH6.2、水温26.5℃にて、F2(第二世代)の人工孵化を確認』
遺伝子を次代へ繋ぐ「繁殖」という行為は、生物学の世界において、何より雄弁な実績だった。
そして俺は知っていた。
夏ふぐが、一度も繁殖を成功させたことがないということを。
知識の巨人。
だが、その手はまだ、新しい命を掬い上げたことがない。
それが俺の、ささやかで、しかし確かな優越感の源だった。
そんなある日、静かだった夏ふぐのタイムラインが、不意に揺れた。
それは、今まで見たこともない、弱々しいSOSだった。
『飼育していたフグたちが、原因不明の病で次々に落ちています。
ヒレが崩れ、浮上できなくなってしまいました。
どなたか、ご助言をいただけないでしょうか……』
その文字列を見た瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
脳裏に、水槽の底で動かなくなる小さな命の姿が浮かぶ。
(……マジか。あの夏ふぐが、本気で困ってる)
迷いは一瞬。
指は、ほとんど無意識にキーボードを叩いていた。
『カラムナリス病だ。
水温を28℃まで上げて、グリーンFゴールドを規定量の半分だけ投薬。
絶対に量を超えるな。
それから、餌は24時間切れ。
水流もできるだけ弱くしろ』
返信は、すぐには来なかった。
ディスプレイを睨みつけながら、自問自答が頭をよぎる。
夏ふぐのフグは助かったのか?
俺の処方は、本当に正しかったのか?
気づけば俺は、あの夏ふぐからの返信を、息を詰めて待っていた。
焦燥感が募る長い沈黙。
そして、数日が過ぎた夜。
短い、短いメッセージが届いた。
『……フグたち、持ち直しました。
本当に、ありがとう。……助かりました』
たったそれだけの言葉が、俺の胸の奥深くで、何かの硬い塊を、静かに溶かしていくのを感じた。
「ざまぁみろ。知識だけじゃ、命は救えねぇんだよ」
口ではそう嘯きながらも、ディスプレイが放つ感謝の言葉が、じんわりと心を温めていた。
奇妙な関係だった。
誰よりも互いを意識し、その一挙手一投足を追いかけているくせに、決してそれを認めようとはしない。
「お前なんかに負けるか」と仮想の敵意を剥き出しにしながら、実際は、互いの投稿を誰よりも待ちわび、その言葉を誰よりも深く読み解こうとしていた。
それは、もはや敵意などではない。
ライバル、という言葉でもしっくりこない。
もっと純粋で、根源的な、「信頼」に近い何か。
だが、俺たちはまだ、その感情に名前をつける術を知らなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
──誰にも負けたくない。
──でも、あいつにだけは、認められたい。
その矛盾した祈りを胸に、俺たちの硝子越しの対話は、高校時代も変わることなく続いていく。
画面の向こうの好敵手(ライバル)にだけは、絶対に負けたくない。
けれど、本当は──
誰よりも、その存在に心を許していたのかもしれないことに、まだ気づかないふりをしながら。
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