2 偶然

「森川珈琲店」は東松戸の駅から歩いて二十分、バスで三番目の停留所、といういささか不便なところにある。この全国チェーンの喫茶店が、ぼくのバイト先だ。


 広い敷地に広い駐車場。郊外ならではの作りだが、店内は高級感あふれる木材の家具を使用し、ゆったりと座れるイスに、席と席の間隔を広めにとったインテリア。長居する客を追い出すわけでもないので近所のご老人たちの憩いの場になっている。そのせいか商品当たりの単価も高い。


 そんなもろもろの条件が重なり、この時間はそれほど忙しくもない。勉強目的の学生さえもいないほどだ。なので夕方のシフトはいつも、社員の西山にしやまさんという四十歳くらいの女性とぼくの二人でホールを回している。


 人と触れ合うのは苦手だし、学校ではバイトは禁止されている。「調理スタッフ」を希望してそのように採用されたはずなのに、なぜかホールをやらされているという理不尽。それでも一年以上続いているのは居心地がいいからだ。


「おはようございます」


 白いシャツに黒いスラックスの制服に着替えて、胸ポケットには名字だけ書かれたネームプレートをつけた。腰につけているのは注文用の子機。タイムカードを押し、調理場を通る。コックコートに身を包んだ男性社員が一人。頭を下げて歩きながら、カウンターへと出た。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 軽く頭を下げると、茶色いショートカットの西山さんがコーヒーメーカーのボタンを押したところだった。下に置いた白い大ぶりのカップに、黒い液体が滴り落ちる。ホール担当でも飲み物など、できるところはやらなければいけないのだ。


 チリンチリン、と客の入店を知らせる鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 西山さんとぼくの声が重なる。


「あいてる席にどうぞ」


 西山さんができたてのコーヒーをトレーに乗せ、注文客の方へ向かった。ぼくはグラスにピッチャーの水を注いだ。


 珍しく、女子学生のようだった。もうすぐ梅雨も明けるかというこの季節、雨でもないのに短いスカートが隠れるくらいダボダボのパーカーを着て、フードを目深にかぶっている。


 あれ?


パーカーの裾からわずかにのぞくのは、紺色の生地に細い赤と緑の線の入ったプリーツスカート。


 もしかして、うちの学校?


 我が鈴ヶ森高校は数年前に制服のデザインが変わったことで急に人気が出た。この辺ではなかなかない色使いなので、いくらファッションセンスがないぼくでも見間違うことはなかった。


 バレたらまずいな、と、ぼんやりは思うものの、ぼくは地味だし親しい友達はない。今は学校の制服を着ているわけでもないので、挙動さえおかしくなければまず見つかることはないだろう。


 その人が席に着くのを見計らって、


「いらっしゃいませ」


 と、水とおしぼりをテーブルに置いた。その人はいそいそとバッグの中から筆記用具と教科書、ノートなどを取り出していた。


「ご注文がお決まりになりましたらそちらの……」


 さっさと退散しようと早口で言いかけて、声が詰まった。

「数学1」と書かれた教科書の表紙にキラキラシールとか、プリクラとかいう小さな写真シールが無造作に貼られている。写真の中で笑っているのは、長い金髪の女子と茶色い髪の二人。そしてその教科書に添えられた長いピンクの爪。


 さすがに、ぎくりとした。


 その人が頭を上げ、顔を傾けてフードの奥から見上げてきた。途中で言葉を止めたぼくを不審に思ったのもしれなかった。気づいた時には既に遅く、見覚えのある人工的な長いまつげに縁どられた丸い目と目が合った。


「あ!」


 バレたか!


 体をこわばらせるぼくの前で、その人は、フードを跳ね飛ばした。サラサラの金髪がこぼれて、覚えのある花の香りが漂う。ぼくを見て両手で口を押えた。まじまじと顔を見たあと、


「……誰だっけ!」


 ガクッと来た。


 さっき学校でぶつかった者ですが。


 とは思うけれど、こちらも身バレしたくない。安どのため息を隠し、聞いていない振りで続けた。


「……ご注文がお決まりになりましたら」

「見たことある。知り合い?」


 藤原あかりはぼくの言葉が聞こえていないみたいに遮った。


「……違うと思います」

「あー、そうだー! さっきぶつかった人じゃーん!」


 ……声がでかい。全身に冷や汗がにじむ。少し離れた席にいる二組のご老人たちからの「何事か」というざわめきが聞こえるのは気のせいか。


 藤原あかりはそんなことなど微塵も気にせず、声を上げて笑った。ぼくが相手をしないので、彼女の笑いがおさまった後に奇妙な沈黙が漂った。そこでようやく、ここが静かな喫茶店だと気づいたようだった。


「ご注文がお決まりになりましたらそちらのタブレットで……」


 もう一度繰り返した時だった。


「……市谷柊いちがやしゅう?」


 藤原あかりの言葉で、自分が何を言いかけていたのかも頭の中からすっぽり抜け落ちてしまった。


「なんで呼び捨て……!」

「うそっ、マジ⁉ マジで市谷柊? あの、二年生で、超頭がよくて、入試で過去一のトップの成績だったのに、新入生の挨拶辞退して、休み時間も勉強ばっかりしてるせいで友達もいなくて、おかげで常に成績学年トップでどうやら家がお金持ちらしい人」

「しいっ! しいいいいいっ!」


 思わず唇に人差し指を当てた。

 混乱した頭のまま小さく藤原あかりをにらんだ。


「そんな大きな声で個人情報を撒き散らかさないでください!」

「だって書いてるじゃん」


 胸のポケットにつけたネームプレートを指さした。しっかり「市谷」と書かれている。

 藤原あかりは微妙な顔をしているぼくの前で柔らかく笑った。


「へえ、やっぱりそうなんだあ」


 恐喝されている人のような気分になり、思わず下を向いた。落ちそうになるメガネを慌てて指で押し戻す。


「真面目なのに校則破ってバイトしちゃうとか、先輩、意外とチャレンジャーなんですね」


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 普段からなるべく刺激的なことを避けるように生活しているのに! 

 そんなぼくの想いをあざ笑うかのように心臓が早打つ。


 さっきはそんなに悪い人じゃなさそうだと思ったけど……もしかしたら本当は見かけ通り悪い人だったらどうしよう。口止め料とか請求されたら……!


 暴走する妄想に冷汗がにじむ。藤原あかりは目をぱちくりさせていたけれど、うつむき加減のぼくと目があったら、その淡いピンクに縁どられた唇を柔らかく曲げた。


「大丈夫。誰にも言いませんよ。ここでバイトしてること」


 藤原あかりはぼくを見て、いたずらっぽく声を潜めた。


「でも、あたしがここに来た、ってことも内緒にしておいてください。約束ですよ」


 恐る恐る様子をうかがうぼくには見向きもせず、唇と同じ色のマニキュアを塗った爪で教科書とノートを開き始めた。


 ……悪い人、では、ないのか。


「クリームソーダください」


 注文だけ言い残すと、藤原あかりはすぐに真剣に教科書に向き合った。

 どっと疲れた。

 ベルトから子機を取り出して注文を打ち込む。


「クリームソーダですね。少々お待ちください」


 頭を下げて持ち場へ戻った。


 バイトしているのがバレてしまったこと。悪目立ちしている藤原あかりと普通に会話してしまったこと。そしてそれが、同年代との久しぶりの会話らしい会話だったこと。藤原あかりが真剣に勉強をしていたこと。


 なんか、色々いっぱいいっぱいだ。

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