3 待ち伏せ

 駅からもバス停からも離れたこの店の閉店時間は、割と早めの午後八時だ。


「市谷君、もう帰っていいよ。バスに乗り遅れるでしょ?」


 西山さんに言われて、「すみません。じゃあ、お疲れ様です」と、控室に戻った。


 駅までは歩くと二十分だけれど、帰りはなるべくバスを使うようにしている。そしてそのバスは八時十五分を過ぎると次は最終の九時五分まで来ない。


 着替えて外に出たら、虫の声が聞こえた。まとわりつくような空気と立ち上る草の匂いにむせそうになる。街灯もまばらで、人影はほとんどない。


 頭上に浮かぶのはきれいな満月。


 こんな時、しみじみ思うのだ。


 月の光、って結構明るいんだ、と。


 一年ほど前まで、こんな風に感じたことなんかなかった。世界は暗くて、苦しくて、痛いものだとばかり思っていたから。


 バス停に向かって歩き出した時だ。


「いーちがーやせーんぱーい」


 目の前に小柄な影が飛び出してきた。


「ひいっ!」


 心臓のメーターが振り切れそうになった。広い県道沿いに並ぶ街灯のぼんやりとした明かりの下でもはっきりわかる、サラサラの金髪ストレート。


「ふ、藤原あかり⁉」


 つい声を上げると、藤原あかりはぎょっとしたように首を突き出した。


「え⁉ なんであたしの名前知ってるんですか⁉ それも呼び捨て!」

「し、仕方ないだろ、学校で、め、目立ってるんだから……」


 そこまで言って思い出した。


「き、君だってさっき、ぼくのこと呼び捨てにしたじゃないか」


 それで「ふうん」と考え込み、


「確かに」


 納得したように頷いた。


 彼女はぎりぎりまで帰らなかった客の一人で、ほかに客がいないのをいいことに何度も話しかけようとしてきた。それを、「ごめん、仕事中だから」「サボってると思われたくないんだ」などと言い訳をし、最後には、


「ごめん、もうすぐ閉店だから……」


 と、追い出したのだった。


 普通に考えて、藤原あかりのような人がぼくのような者と近づきたいと思うわけはない。ほぼほぼ初対面だし、こっちが警戒してるんだから察してくれよ! と心の中で思っていたのだが。


 まさか、待ち伏せしているとは思ってもみなかった。


 怒ってるのかも。「せっかく話しかけてやったのに断るとは何様のつもりだ!」とか、「あたしを追い出すなんて百年早いんだよ!」……そう言って仕返ししてくる、とか。 ネガティブな想像に思考を占領されて体がこわばった。とっさに両手で頭を抱え、肩を丸めて背中を向けていた。


 殴られるか。……蹴られるか。


 痛みを覚悟して固く両目を閉じた。……と。


「……何やってんですか?」


 怪訝そうな声に、恐る恐る顔を上げる。


 藤原あかりは街灯の下、仁王立ちで、片手にノートを持ったまま眉をひそめている。


「え、あ……」


 殴られるわけでは、ない。


 そう気づいたら、全身から力が抜けた。


「い、市谷先輩⁉」


 歩道の上にしゃがみこんでしまった。


「ちょ、ちょ、何! 驚きすぎ! え? それとも、びょ、病気とか⁉」

「い、いや、何でもない。……ほ、ホントに、ほんと……!」


 自分で立ち上がれず、藤原あかりに支えられてどうにか立ち上がった。


 ビーッ。


 聞きなれた音に顔を上げると、いつの間に来ていたのか、バス停にいたバスが扉を閉めたところだった。


「あ、バ、バス……」

「え? 乗るんだったんですか⁉」


 藤原あかりは支えてくれていた手を離し、頭の上にあげて振った。


「待ってー! 乗りまーす!」


 バス停に向かって走り出した。


「あっ」


 支えを失ったぼくはそのまま地面にひっくり返った。


「えっ⁉ 嘘でしょ!」


 ぎょっとしたように戻ってきて、もう一度ぼくを支えてくれた。


「市谷先輩、虚弱体質?」

「お……おどかすからだろ」

「驚きすぎ。ヘタレだし」

「うるさい」


 支えられながらどうにかバス停まで歩いてベンチに倒れこんだ。視界がぼやけているのに気づいて、メガネをぎゅっと押し上げる。


「ごめんなさい」


 藤原あかりは隣に腰掛け、本当にすまなそうにわずかにうつむき、小さく口をとがらせた。その姿を見たら……確かにぼくがヘタレだな、と思い始める。


 悪い人ではないみたいなのに。


「な、何でここにいるんだよ」


 それだけをどうにか絞り出すと、


「待ってたんです」

「なんで」

「勉強、教えてもらおうと思って」

「え……」


 申し訳なさそうにちらりと見てくる。


「だって……頭いいんでしょ?」

「頭いいっていうか」

「期末前なのに余裕ぶっこいてこんな遅くまでバイトしちゃうとか、頭いいからに決まってるじゃないですか。それとも、学年首位の座をあきらめることにしたとか? 徹夜で超がんばるとか?」

「なんでそんなにぼくの情報が出回ってるんだ? うちの学校は個人の成績は公表しないはずだけど」

「そういうのって、漏れちゃうものなんですよ。この間の全国テスト、関東地区で十番以内に入ったんですよね?

「そ、それは……!」

「制服かわいい以外にも、超頭のいい生徒がいて校内の平均点ぶち上げてくれたら学校の人気が上がる、って先生たち、喜んでますよ。ほんとは名前言いたくてうずうずしてんの。それでも仕方なく、ほのめかすだけで我慢してるんだから。許してあげなよー」


 あはは、と笑った。

 

 ……そういうことか。

 

 ぼくには残念ながら友達はいないし、漏れるとしたら先生サイドしかない。柔道部の顧問だという稲田先生のいかつい顔を思い出す。

 彼は五十代のベテランで、去年も今年もぼくの担任だ。

 

 どっと疲れが押し寄せてくるような気がした。


「個人情報の守秘義務はないのか」

「は? 何言ってんの? 意味わかんない」


 うつむいてまっすぐ足を延ばし、かかとでアスファルトを蹴っている。その横顔が悲しそうに見えた。それが……少し前の自分の姿と重なった。


「……どこ?」


 思わず口を開いていた。


「家?」


 キョトンとした顔で見上げてくるが、そんな風に言われて驚いたのはこっちも同じだ。


「なんでそうなるんだよ。ほぼほぼ初対面でそんなこと聞いたら普通に怖いだろ」

「ですよね」


 藤原あかりは声を上げて笑った。


「ぼくが聞いてるのはわからない箇所」

「……いいんですか?」


 目を輝かせた。


「あの、お金は払います」

「え……?」


 確かに金には困っている。藤原あかりはそんなことは知らないはずだけど、壁を立てられたような気がして、つい、声が尖った。


「いいよ、別に」

「ほんとに、いいんですか?」


 恐る恐る顔をのぞきこんできた。


「いいよ。どこ?」

「ここなんです」


 持っていたノートを開いた。

 甘い花のような香りが漂う。

 書かれていたのは、二次関数。因数分解。


 なんでこんなのがわかんないんだ。二次関数なんか中学でやったことの応用じゃないか。……そんなことを思ってから、我に返る。


 人のこと言えた義理じゃないだろ。


 友達もいないし、人に教えたこともない。そもそもこの人がどこまでわかっているのかもわからない。それでも一応できるところまではやってみようとスマホで時間を見る。次のバスが最終で、来るのは約一時間後。


「終バスまでに間に合うかな」


 すると、ぼくの思いを知らない藤原あかりは小さく笑った。


「この距離でバス使うんだ」

「早く帰りたいんだよ」

「えー! まだ八時台ですよ! あ! 一刻も早く帰って試験勉強するとか!」

「いいから! ごちゃごちゃ言うなら教えてやんないぞ」


 すると、ほっとしたように笑った。


「ありがとーございまーす。お願いしまーす」


 大げさに頭を下げる。


 そんな風にされたらもう、やるしかないじゃないか。……でも、どうしてだろう。いつになく気持ちが弾んでいる。


 ぼくはもう一度メガネをぎゅっと押し上げた。

 一番苦戦してそうな二次関数から取り掛かることにした。


「これはさ、パターンが決まってるんだよ。こういう式のときはグラフの頂点が上に来て、こっちの場合はグラフの頂点は下に来る。ここがマイナスだと頂点がここで……」


 説明し始めると、必死にメモを取り始めた。


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