第一章 喫茶店「森川珈琲店」

1 出会い


 終業のチャイムが鳴った。

 教室にほっと安堵の声がもれる。ぼくもいつものように静かに席を立ち、廊下に出た。部活へ向かう者、友達とはしゃぐ者、家路を急ぐ者。


「よお。期末の勉強、やってるか?」

「聞くなよ」

「腹減ったから何か食って帰ろうぜ」


 後ろから隣のクラスの男子が話す声が聞こえる。一人でゆっくり歩きながら、彼らの会話に耳を傾ける。


 実はぼくは二人のことを知っている。けれど、彼らはぼくのことを覚えているだろうか。幼稚園の時にはよく遊んだのだけれど。


 一人は大垣哲也おおがきてつや。もう一人は樋口太陽ひぐちたいよう

楽しそうだな、なんて思いながら角を曲がって昇降口につながる廊下に出た時だ。


「あかり、今日どうするー?」

「どっかで勉強して帰る?」

「ごめん、今日は用事ある」


 今度は弾んだ女子の声が耳に飛び込んできた。


「あ」


 後ろで大垣哲也がつまったような声をあげた……と思ったら。


 どん。


「きゃああっ!」


 視界の端に金色が舞った。

 何かにぶつかられた。転がってきたものに躓きそうになり、すんでのところでバランスを保つ。


「いったあ!」


 背中まであるサラサラ金髪のストレート。その人はぺたんと廊下に座り込んでいた。

 第二ボタンまで開けた制服のシャツ。緩く結んだリボン。首筋にはネックレスが光っているし、メイクは濃いし、長い爪にはマニキュア。


 二年のぼくでも知っている。


 一年三組の藤原ふじわらあかり。


 ぼくの人生では、絶対に関わらないであろう人種。


 見上げてきた丸い目は人工的に長いまつげに縁どられており、驚いたように何度も瞬きをした。ぶつかってきたのはあっちだけれど……普通に怯えた。


「ご、ごめ……」

「ごめんなさーーい!」


 大きな声にかき消された。怖い人かと思ってたから、少し驚いた。


「こっちこそ、ごめん」


 手を貸そうかと考える間もなく、藤原あかりは、ぴょん、と音がしそうに立ち上がった。


「もうやだ、あかり」

「ウケるー」


 藤原あかりと一緒にいた二人が弾けたような笑い声をあげた。髪が茶色で、一人はサラサラのストレート、もう一人は緩いウエーブ。いかにも一番目立つグループにいます、という感じの人たちだ。その人たちはぼくには一瞥もくれず、少し後ろにいる二人に視線を飛ばした。


 それは仕方ないかと思う。幼稚園の頃には想像もしなかったけれど、今現在、大垣哲也は明るくて友達が多い人気者だし、樋口太陽はクールなイケメンと言われているから。


 それでも藤原あかりだけはぼくをまっすぐ見て、ぺこりと頭を下げた。


「後ろ向いて歩いてたあたしが悪かったんです。ほんとに、ごめんなさーい」


 その金髪がきらりと揺れ、心臓が何かを感じたように音を立てる。けれども藤原あかりは何も感じなかったようにすぐに友達に視線を向けた。


「じゃあねー」


 手を振りながらぼくの隣を通り過ぎていった。器用に人波を縫って走り出す。


「後ろ向いて歩くって、子供じゃないのか」


 樋口太陽がぼそりとつぶやいた。


 ――なんか、元気いっぱいの子犬みたいだな。


 振り返ってこんな風に返したい、とは思う。けれど、彼らとはぼくが別の小学校に入ってからは一度も話したことがない。多分、二人は小、中とずっと仲良くしている。今更声をかけるのもなんだし、ぼくがあっちを覚えていても、あっちがぼくを覚えているという保証はない。もう、十年以上も昔の話だし。


 向こうから話しかけてくれたらぼくも返事をしたいと思う。感触次第では、「幼稚園の時に一緒だったよね?」ぐらい言えるかもしれない。……そんな期待に少しだけ胸を膨らませる。絶対にそんなことはないとわかってるけど。いや、わかってるからこそありえない想像で楽しむことができるんだ。


「こら、藤原! 走るなっ!」


 廊下から先生の声がした。


「すいませーん」


 彼女はまだ入学して数か月。ちょっとした有名人だけど、小柄なせいか、間違えて高校の校舎に紛れ込んだ中学生にしか見えない。


「……ありゃ、全然反省してねえな」


 大垣哲也が呆れたような声を上げた。ぼくもその声を聞き、笑いそうになる。

 あの金髪だって入学早々に問題になり、何度も注意されている。それを「ごめんなさーい」でやり過ごしている、というのは有名な話だ。


 先生たちがそれ以上うるさく言わないのは、「内申書で減点してやればいい」と、事なかれ主義を貫き通しているからだ。周りも「ズルい」と言い出さないのは、ここ、公立の鈴ヶ森すずがもり高校がまあまあの進学校で、学校推薦に力を入れているからだろう。ほかの生徒はむしろ、「敵が一人減ってラッキー」とか「あんなくだらない自己主張で内申書の点を落とすとか、バカじゃねえ?」ぐらいに思ってるんじゃないだろうか。


 ――ああ、嫌ね。ガラが悪い。あなた、あんな子と友達でいるのやめなさい。


 遠い昔、母から言われた言葉が胸によみがえり、ちくりとぼくをつつく。

何でいまだにあんな言葉に囚われているのか。


 気を取り直して昇降口を目指した。縁なしのメガネをぎゅっと押してぼんやりと人の背中に見え隠れする金髪を見つめる。


 悪い気はしなかった。むしろ……なんとなく元気が出た、というか。


 これから午後八時までバイトだ。


 かすかに甘い花の香り。


 藤原あかりが残して行ったものだろう。彼女の姿はもうすでにそこにはなかった。


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