第五十二話 決意

 ひっきりなしに人々が行き交う中央総合病院の廊下を、翔は走っていた。

 周囲の喧騒も、すれ違う人々の視線も、今の彼には一切意識の外だった。

 

 頭の中を支配しているのは、電話口で聞いた医師の切迫した声と妹の名だけ。

 ガラス張りの壁の向こうに、その姿はあった。


「美咲……っ!」


 前回病室を出た際には穏やかな寝顔を見せていたはずの妹は、浅く、苦しそうな呼吸を繰り返していた。

 血の気を失った顔色は青白く、その小さな体からは、生命の灯火そのものが刻一刻と失われていくように見えた。

 傍らに立っていた担当医師が、悔しそうに顔を歪め、翔に向き直る。


「及川さん……。見ての通りです。数時間前から原因不明の衰弱が始まりました。一度は快方に向かっていたはずなのに……」


 医師は、自らの無力さを噛み締めるように、唇を固く結んだ。

 

「あらゆる可能性を想定し、考えうる限りの手を尽くしています。ですが、このままでは……。申し訳ない。もはや、現代医療ではどうすることも……」


 その言葉は、翔にとって死刑宣告にも等しかった。

 ダンジョンに潜り、死闘を繰り広げ、神話級の個体さえも打ち倒した。


 その力は、常人を遥かに凌駕しているはずだった。

 だが、ガラス一枚隔てた先で、静かに死へと向かっていく最愛の妹を前に、自分は何もできない。

 

 ただ、無力に立ち尽くすことしかできないのだ。

 ドクン、と心臓が凍てつくような痛みを訴える。

 

 翔は、ガラスに映る自分の顔を見つめ、どうしようもない無力感に、強く、強く拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込み、血が滲む痛みだけが、かろうじて彼を現実へと繋ぎとめていた。



 ---


 

 どれほどの時間が経ったのか。

 気づけば、翔はJGDSAからあてがわれた仮設拠点――ヴィシュヌが佇む、だだっ広い整備室に戻っていた。


 病院からの道のりは、全く覚えていない。

 まるで魂が抜け落ちた抜け殻のように、ただ無意識に足を運んでいただけだった。

 

 心配そうに出迎えた律子の言葉も、今の翔の耳には届かない。

 そんな彼の前に、ルナが静かに歩み寄った。

 彼女の透き通るような瞳が、じっと翔の心の奥底を見つめている。


「……翔の妹さんの症状」


 ルナは、淡々と、しかし、その声には確信が込められていた。


「私の故郷でも見られました。急速な衰弱、思ったよりも症状が進行している」

 

 その言葉に、翔はハッと顔を上げた。


「ダンジョンコアが早急に必要です。律子と私でダンジョンコアを収める器は用意します」


 律子も答える。

 

「医療処置についてはこれから、でも何としてもやってみせる」


 その静かな説明が、翔の中で散らばっていたピースを一つに繋ぎ合わせた。

 

 やはりダンジョンの深層に解決策がある。

 だが、それは誰も達したことのないダンジョン攻略という前人未踏の難題を乗り越えねばならない。

 

 残された時間は、ない。

 もはや、一刻の猶予もないのだ。


 その翔の表情から全てを悟った律子が、何かを言いかけた、その時だった。

 整備室の入口に、一つの人影が現れた。


「――話は、聞かせてもらいました」


 厳しい表情で立っていたのは、JGDSA特命担当官、氷川沙織だった。

 彼女の後ろには、数名の部下が控えている。

 

 氷川は、病院に張り付けていた部下からの報告で、既に美咲の容態悪化という情報を正確に掴んでいたのだ。

 

 彼女は、一切の無駄な前置きを省き、まっすぐに翔を見据えた。


「及川さん。単刀直入に言います。今回の件、我々JGDSAも、あなたに全面協力させてもらいます」


「……何のために」


 翔は、感情の抜け落ちた声で問い返す。

 今の彼にとって、国家の都合など、どうでもよかった。


「もちろん、打算はあります」


 氷川は、翔の敵意のこもった視線を意にも介さず、はっきりと告げた。

 

「ダンジョンという存在は、国家の安全保障を揺るがす重大な脅威です。そしてそれを解明するきっかけを私はあなたと、その機体ヴィシュヌに見出してる」


 彼女はそこで一度言葉を切り、わずかに表情を和らげた。


「ですが、それだけではありません。これは、私個人の思いでもあります。目の前で失われようとしている命がある。そして、それを救うために全てを懸けようとしている人間がいる。その力を、私たちの組織力で、支えたい。妹さんを助けるために、我々の持つ情報、技術、人員、その全てを使ってください」


 それは、氷川という一人の人間からの、偽りのない言葉だった。

 国家という巨大な機構の歯車としてではなく、一人の人間として、彼女は翔に手を差し伸べようとしていた。


 その言葉を合図にしたかのように、律子が素早くコンソールを操作した。

 整備室の壁一面を占める巨大なディスプレイに、膨大なデータが流れ込み、やがて一つの立体的な構造図を映し出す。


「翔ちゃん、見て」


 律子の声には、緊張と、そしてわずかな興奮が入り混じっていた。

 

「病院から戻ってくるまでの間に、解析を終えたわ。あなたがヴィシュヌで収集した全データと環境ログ、それに、ルナが持つ知識。その全てを統合して、習志野ダンジョンの全構造を再構築したの」


 ディスプレイに映し出されたのは、螺旋を描きながら、深く続く巨大な地下迷宮の全体像だった。


「これが、習志野ダンジョンの全てよ。全75層。そして……最深部を見て」


 律子が指し示した先、ダンジョンの最下層。

 その中心で、一つの光点が、禍々しく、そして圧倒的な存在感を放ちながら脈動していた。


「キメラの魔石とは、比較にさえならない、巨大なエネルギー反応……。これが、このダンジョンの発生源。間違いなく、ダンジョンコアだわ」


 全ての情報が、そこに示された。

 

 妹を救うためのダンジョンコア。

 そして、そこにたどり着くための、道筋。

 

 翔は、ディスプレイに映る巨大な迷宮と、その最深部で脈動するコアを、ただ黙って見つめていた。

 

 彼の心に、先程までの無力感はなかった。


「……俺は行く」


 翔の口から、静かな、しかし、揺るぎない決意の言葉が漏れた。

 

 彼は、仲間たちへと向き直る。

 

 その瞳に宿るのは、もはや焦りや絶望ではない。

 

 妹の命、仲間たちの想い、そして国家の期待。

 その全てを、この身一つで背負うという、覚悟の光だった。


「必ず、コアを手に入れて、美咲を救う」


 運命が突きつけた過酷な試練を前に、青年は、ただひたすらに、深淵の底を目指すことを決意した。

 

 全てを懸けた最後の戦いが、今、始まろうとしていた。

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