第五十一話 一難去って

 水を打ったような静けさが訓練室を支配していた。

 勝者と敗者を分けた圧倒的な実力差。


 その現実を目の当たりにした観衆は、誰一人として言葉を発することができない。


 翔は、首筋に添えた手刀をゆっくりと下ろした。

 もはや敵意も、戦意も失い、ただ恐怖と屈辱に震えるだけの男に、これ以上向けるべき感情はなかった。


 静かに間宮に背を向け、心配そうに見守る仲間たちのもとへと歩き出す。

 その翔の背中を、間宮は憎悪に歪んだ瞳で見つめていた。


「……くそっ……! くそぉっ!」


 絞り出すような呻き声が、彼の喉から漏れる。

 エリートとしての自負、自信。


 若きエースという称号。

 彼を構成していた全てのプライドは、今この瞬間、観衆の目の前で、跡形もなく粉々に砕け散ったのだ。

 

 駆け寄ってきた仲間たちが、震える間宮の肩を貸し、よろよろと支える。


「間宮さん、しっかり!」


「ひとまず、ここから……」


 その声に、間宮は弾かれたように顔を上げた。

 仲間たちの目に浮かぶのは、同情か、憐れみか。


 どちらにせよ、それは間宮にとって、敗北そのものよりも耐え難い屈辱だった。

 彼は、その手を荒々しく振り払う。


「……触るな!」


 そして、もう一度、忌々しげに翔の背中を睨みつけた。

 その瞳に宿る色は、もはや単なる嫉妬や焦りではない。


 全てを奪われた男が抱く、どす黒く、底なしの憎悪。

 この屈辱は、決して忘れない。

 いつか必ず、この手で、あの男を地の底に叩き落としてやる、と。

 

 憎悪の炎をその身に宿したまま、間宮は、逃げるように訓練室を去っていった。



 

 その様子を冷ややかに一瞥した氷川沙織は、今度は翔へと向き直る。


 彼女は、まるで稀少な鉱物でも鑑定するかのような目で翔の全身を観察しながら、ゆっくりと近づいてきた。

 律子とルナが、翔を守るように前に立つ。


「翔ちゃん、大丈夫!? 怪我は!?」

 

「……ショウ」


 律子の心配そうな声と、ルナの静かな眼差しに、翔の瞳にようやく人間らしい光が戻った。

 張り詰めていた緊張が解け、どっと疲労が押し寄せる。

 

 しかし、そんな彼らの間に、氷川は躊躇なく割り込んだ。


「――興味深いものを見せてもらいました、及川 翔さん」


 彼女の声は、先程までの喧騒が嘘のように、静かだがよく通った。

 その怜悧な瞳が、値踏みするように翔を射抜く。


「あなたのその〝力〟、正当に評価させていただきます」


 それは、賞賛の言葉ではなかった。


 宣告だ。


 あなたの存在は、もはや一個人の範疇にはない。

 国家の管理対象として、その価値と危険性を、これから厳密に査定していく、という。

 

 氷川はそれだけを告げると、踵を返し、部下らしき職員に何事か指示を与えながら、足早に立ち去っていった。

 後に残されたのは、彼女の言葉が持つ不吉な響き仲間たちの戸惑いだった。


 

 ---


 

 結局、その後翔は医務室で、改めて詳細なメディカルチェックを受けることになった。


 様々なセンサーを取り付けられ、診断装置の上に横たわる。


「……驚きですね。肉体的には、全くの異常が見られません。むしろ、トップアスリート級の数値を叩き出している」


 白衣を着た初老の医師は、モニターに表示されたデータを信じられないものを見るように何度も見返しながら、感嘆の声を漏らした。

 

 強化外骨格スーツを纏ったエース探索者を、生身で圧倒したのだ。

 多少の筋繊維の断裂や、骨格の歪みがあってもおかしくない。


 だが、翔の体には、その痕跡すらなかった。


「ですが……」と、医師は言葉を続ける。


 「脳波と心拍には、極度の緊張状態が続いた痕跡が見られます。自覚している以上の、精神的な消耗が蓄積しているはずです。しばらくは、安静にすることを強く推奨します」

 

 その診断は、翔自身にも自覚があった。

 

 医務室を出て、JGDSAからあてがわれた仮設の拠点――ヴィシュヌの格納庫を兼ねた、だだっ広い整備室へと戻ると、律子とルナが駆け寄ってきた。


「おかえり、翔ちゃん! 体、なんともなかった?」


「よかった」


 二人の変わらない笑顔に、張り詰めていた心の糸が、ようやく緩むのを感じた。


 ここが、自分の帰る場所なのだ。

 

 借りたばかりの整備室の中央には、戦闘の傷跡が生々しいヴィシュヌが静かに佇んでいる。

 垂れ下がった左副腕と、コクピット横の爪痕が、先日の死闘の激しさを物語っていた。


「ヴィシュヌのダメージレポート、まとめたわ」


 律子が、タブレット端末を操作しながら、どこか嬉しそうに言った。

 彼女にとっては、この機体の傷跡すら、次なる進化への貴重なデータでしかない。


「今回の戦闘データのおかげで、フレーム強度と魔力伝達効率に、まだかなりの改善の余地があることが分かったの。それにまだまだ復元しきれてない遺物がたくさんある……ヴィシュヌは、もっと、もっと強くなれる!」


 目を輝かせながら、新たな強化プランを語る律子。

 

 その隣で、ルナが「はい」と静かにマグカップを三つ差し出した。

 中からは、インスタントコーヒーの香ばしい匂いが立ち上っている。


 ようやく、日常が戻ってきた。

 

 そんな穏やかな空気が、整備室を満たしていた。

 翔は、心の底から安堵のため息をつき、温かいマグカップに手を伸ばした。


 その、瞬間だった。


 けたたましい電子音が、平和な空気を引き裂いた。

 翔のポケットに入れていたスマートフォンが、狂ったように振動している。

 

 誰もが、その音の発生源に視線を向けた。


 翔は、胸騒ぎを覚えながら、ゆっくりとスマートフォンを取り出す。


 画面に表示された着信相手の名前を見て、彼の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。


【中央総合病院 小児科病棟】


 妹、美咲が入院している病院。

 その病院からの緊急連絡だ。

 

 なぜ、今?


 美咲の容体は、安定しているはずだった。

 ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が、やけに大きく耳に響く。

 背中に、冷たい汗が流れた。


「……もしもし」


 震える手で、通話ボタンを押す。

 耳に当てたスマートフォンから聞こえてきたのは、いつも冷静な担当医師の、焦りを隠せない切迫した声だった。


『及川さん!? よかった、繋がった……!』


「先生……? どうかしたんですか、美咲に何か……」


『落ち着いて聞いてください。妹さんの容体が、急変しました』


――その言葉が、スローモーションのように聞こえた。

 世界から、色が消えていく。


『数時間前から、突発的にバイタルが低下し始めたんです。原因不明の衰弱が始まっています……! 今、考えられる限りの処置をしていますが……』


 原因、不明の、衰弱。

 その言葉が、重い楔のように、翔の脳天に突き刺さった。


 カラン、と。

 乾いた音が、静かな整備室に響いた。

 

 翔の手から滑り落ちたスマートフォンが、コンクリートの床を転がっていく。

 律子とルナが、息を呑んで翔の顔を見つめていた。


「翔ちゃん……?」

「ショウ……?」


 その声は、もう翔の耳には届いていなかった。

 全身の血の気が、サッと引いていくのが分かった。


 間宮に勝利した、わずかな高揚感など、一片たりとも残ってはいない。

 胸の内を支配するのは、全てが手遅れになってしまうのではないかという、身を裂くような恐怖。

 

そして。

 

 その恐怖の奥底で、一つの覚悟が、蒼い炎となって燃え上がった。


 ――美咲を救う。

 そのためならば、悪魔にでも、この身を捧げよう。


 運命は、彼に一瞬の休息すら与えるつもりはないようだった。

 戦いの終わりは、新たな、そして、より過酷な戦いの始まりを告げる号砲でしかなかったのだ。

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