第二十七話 面会①

 ナースステーションのカウンターは、冷たい光沢を放つ人工大理石でできていた。

 

 「すみません、面会をお願いできますか? 302号室の及川美咲の兄です」


 疲労と安堵が混在する表情を湛えながら翔は看護師に声を掛けた。

 

 ガラスの向こう側、書類と電子カルテのモニターに囲まれた看護師は、一瞬だけキーボードを打つ手を止め、翔の顔を見上げた。

 そして、彼の隣に佇む現実感のないほど美しい銀髪の少女ルナに、その組み合わせの不自然さを訝しむように一瞬だけ視線を滑らせる。

 

 しかし、彼女はすぐにプロフェッショナルな仮面を貼り付け直し、業務用の笑顔で頷いた。


「ご確認いたしました。面会時間はあと三十分ほどで終了となりますが、どうぞ。お静かにお願いしますね」


 形式的なやり取り。

 

 だが、今の翔にはそれで十分だった。

 礼を言うと、彼はルナと共に妹・美咲がいる病室へと続く廊下を歩き始めた。


 一歩、また一歩と、殺菌消毒されたリノリウムの床を踏みしめる。

 キュッ、キュッと微かに鳴る靴音が、廊下に妙に大きく響いた。


 あの金額を支払うことができた。

 

 その事実だけが、ずっしりと両肩に食い込んでいた鉛の重荷をほんのわずか軽くしてくれた。

 束の間の安堵感が、まるでぬるま湯のように心を浸していく。


 だが、それはあまりにも儚いことだった。


 まるで真夏のアスファルトに立ち上る陽炎のように、頼りなく揺らめいたかと思うと、病室が近づくにつれて冷たい現実に飲み込まれていく。

 安堵感は急速に色褪せ、代わりにどす黒いヘドロのような不安が再び心の底からせり上がってきた。


 金は払った。

 だが、それで美咲の病が治るわけではない。


 ただ、妹のタイムリミットが、少しだけ先延ばしになったに過ぎない。

 その厳然たる事実が、彼の胸を容赦なく締め上げた。


「302号室 及川美咲」


 プレートが掲げられた病室のドアの前で、翔は足を止めた。

 深く、息を吸い込むと、ツンと鼻を突く消毒液の匂いが肺の奥まで満たしていく。


 隣でルナが、その夜の湖のように静かなサファイアの瞳で、じっと翔の横顔を見つめている。


 彼女の視線には、問いかけも同情もない。

 ただ、砕け散りそうになっている翔の心を見えない糸でそっと繋ぎとめるような気遣いが宿っていた。


「……入るぞ」


 誰に言うでもなく呟き、彼は冷え切った金属のノブに手を掛けた。

 じっとりと汗ばんだ手のひらに伝わる感触が、心臓の鼓動を速める。

 祈るような気持ちで、軋む音を立てないようにゆっくりとドアをスライドさせた。


 その瞬間、空気が一変した。


 廊下のざわめきが嘘のように遠のく。

 

 白い壁、白いシーツ、白い天井。


 色彩を失った部屋の中で、唯一生命の営みを主張するのは、ベッドサイドに置かれたモニターが刻む規則正しく電子音だけだった。


 ピッ、ピッ、ピッ……。


 淡々と響くその音が、この部屋に儚く存在する命を感じさせる。

 換気扇の回る低いモーター音と、時折、加湿器が白い蒸気を吐き出す微かな音だけがその単調なリズムに割り込んでくる。


 そして、その世界の中心に、妹の美咲がいた。


 白いベッドの上で、まるで精巧に作られた人形のように静かに横たわっている。

 かつては太陽の下を駆け回り、健康的な小麦色に輝いていた肌は、今は光を吸い込まない陶器のように血の気を失い、病的なまでに青白い。


 頰は痛々しいほどにこけ、固く閉じた瞼の下には、隈というにはあまりに深い紫色の影が落ちていた。


 乾燥し、僅かにひび割れた唇が、彼女の苦しみを雄弁に物語っている。

 艶を失った髪が、枕に力なく散らばっていた。


 ネーザルが彼女の小さな鼻に差し込まれ、腕からは数本のチューブが伸び、スタンドに吊るされた幾つもの点滴バッグへと繋がっている。


 それぞれに違う色の液体が、定められた速度で一滴、また一滴と彼女の体内に送り込まれていた。

 胸や指先にはクリップ状のセンサーが取り付けられ、そのコードは複雑に絡み合いながら、生命の数値を映し出すモニターへと吸い込まれている。


 命そのものが、か細い電線と透明なチューブによって、かろうじてこの世に繋ぎ止められている。

 その痛々しい光景は、翔の胸を巨大な万力で締め上げるように軋ませた。


 先ほど芽生えたばかりの安堵感など、木っ端微塵に吹き飛んでいく。

 代わりに心の奥底から這い上がってきたのは、出口のない焦燥感と、自分の無力さに対する焼けつくような怒りだった。


 ギリッ、と奥歯が嫌な音を立てて噛み合うのが分かった。


 ベッドのそばへ亡霊のように歩み寄り、パイプ製の冷たい椅子に崩れるように腰を下ろす。

 視線を彷徨わせ、シーツから力なく投げ出されている美咲の手に辿り着いた。


 その手は、翔が覚えている美咲の手とは思えないほどに細い。

 ゆっくりと、まるで薄氷に触れるように、その手をそっと握った。


 あまりの冷たさと、その羽根のような軽さに、翔は息を呑んだ。


 まるで温もりというものを最初から知らないかのように冷え切った指先。

 

 記憶の中にある、自分の手を懸命に握り返してきた、あの小さくても力強い感触はどこにもない。

 それは枯れ落ちる寸前の小枝のように細く、か弱かった。

 指の節々が痛々しく浮き出て、薄い皮膚の下の骨の形まで分かってしまいそうだ。


「美咲……」


 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、無様に震えていた。


「兄ちゃんが……来たぞ。治療費はちゃんと払ってきたからな。だから……だから、大丈夫だ」


 大丈夫なものか。

 何が、どう大丈夫だというのか。


 言葉とは裏腹に、彼の心は悲鳴を上げていた。

 このままでは、美咲はこの冷たいベッドの上で、機械音だけに見守られながら、静かに消えていってしまうのではないか。

 その恐怖が、背筋を凍らせる。


「必ず……必ず、治してやるからな」


 それは妹への約束であると同時に、砕け散りそうになる自分自身を奮い立たせるための血を吐くような誓いだった。


 込み上げてくる熱い塊を喉の奥で必死に飲み込む。

 ここで涙を見せれば、張り詰めていた心の何かが、堰を切ったように崩壊してしまいそうだった。


 彼は握った手に僅かに力を込め、もう片方の手で、美咲の額にそっと触れた。


 微かに熱を帯びた肌の下で、命の灯火が少しずつ、少しずつその熱と共に失われていくのが、指先から残酷なほど鮮明に伝わってくるようだった。


 その様子を部屋の隅で、ルナは椅子に腰かけながら見ていた。


 彼女は一言も発さず、ただ静かに兄妹の姿を見守っている。

 

 そのサファイア色の瞳は、病室の白さも、モニターの光も、そして翔の慟哭さえも、全てを映し込み、吸い込んでいるかのような不思議な深みを帯びていた。


 翔の背中にのしかかる家族を救うという重圧と、ベッドで眠る美咲からこぼれ落ちていく命の儚さ。 

 その全てを、彼女は自身の内側で静かに受け止め、咀嚼しているように見えた。


 ピッ、ピッ、ピッ……。


 張り詰めた沈黙の中、無機質な電子音だけが時間をただただ刻み続けていた。

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