第二十八話 面会②

 どれほどの時間が経っただろうか。


 窓の外では太陽が昇り、降ろされたブラインドの隙間から差し込む光が、病室の窓辺に幾筋もの鋭い線を引いていた。


 生命維持装置の規則的な電子音と、換気扇の回る低いモーター音。

 廊下から微かに聞こえる人の気配さえもが、この部屋の重い静けさを際立たせているようだった。


 消毒薬の匂いが微かに鼻をつく。

 この白く無機質な空間。


 翔はパイプ椅子に深く身を沈め、ただ無言で妹・美咲の痩せた手を握り続けていた。

 骨張った指、力なく横たわるその手からは、かつての温もりが失われつつあるように感じられて、胸が締め付けられる。


ただ、妹の手を握ることだけが、辛うじて彼をこの場に繋ぎとめる唯一の行為だった。


 その時、不意にかすかな衣擦れの音がした。

 空気の密度が僅かに変わるような気配。


 はっと顔を上げると、部屋の隅に置かれた椅子に静かに座っていたはずのルナが、いつの間にかベッドの反対側に立っていた。


 彼女の足音は、この静寂に満ちた病室の中にもかかわらず、翔には全く聞こえなかった。

 まるで澄んだ水面に陽炎が立つように、あるいは光そのものに溶け込むように、ごく自然にそこにいた。


 彼女はベッドの縁に立ち、眠る美咲の顔をじっと覗き込んでいる。

 その横顔には、好奇の色は微塵もなかった。


 ただひたすらに真剣で、静かな光がその瞳に満ちている。

 深く澄んだサファイアの瞳が、微かに細められた。


 それはまるで、熟練の宝石鑑定士がルーペ越しに希少な石の内部構造を見極めようとするかのようでもあり、あるいは熟練の医師が患者の呼吸や肌の色といった微細な兆候から病巣を見抜こうとするかのようでもあった。


 常人には見えない何か――生命そのものが放つオーラや、その流れ、淀み、そして色合いといったものを、その双眸で見通しているかのようだ。

 尋常ならざる集中力が、彼女の華奢な横顔からひしひしと伝わってくる。


 翔は、そのただならぬ雰囲気に息を殺した。

 自分の呼吸音すら、邪魔になるような気がした。


 彼女の視線が、美咲の青白い顔から首筋へ、そして点滴のチューブが繋がれた腕へと、ゆっくりと、しかし確かな意図を持って動いていく。


 何かを確かめ、分析し、そして一つの結論を導き出そうとしている。


 その様子は、これまで美咲を診てきたこの病院のどの医師よりも、ずっと本質的な何かを掴んでいるように翔には見えた。


「ルナ……? もしかして何か、分かるのか?」


 声に出す前に、ルナがふっと視線を翔に戻した。

 その瞳の奥には、深い洞察と、そして何かを決意した強い光が宿っていた。

 彼女はその薄い唇を、静かに開いた。


「翔、この子の病……」


 彼女の声は、病室に漂う気だるい午後の空気を切り裂く、研ぎ澄まされた刃のようだった。

 凛として、けれどどこか慈しむような響きを持っていた。


「多分、治せるかもしれない」


 その言葉は、青天の霹靂となって翔の鼓膜を、いや、魂そのものを撃ち抜いた。


 一瞬、思考が停止する。


 世界から音が消え、電子音も、換気扇の音も、自分の心臓の音すら聞こえなくなった。


 ただ目の前のルナの顔だけが、スローモーションのように網膜に焼き付いている。


 治せる?

  今、この少女は、確かにそう言ったのか?


 絶望という名の底なし沼に、何年も沈み続けていた彼の意識が、その一言によって激しく揺さぶられた。


 水面に投じられた一石のように、混乱と驚愕の波紋が思考の全てを掻き乱す。


「……なっ……どう、いうことだ……?」


 ようやく絞り出した声は、錆びついた機械のようにひどく掠れていた。


 喉の奥が燃えるように熱い。

 長年の絶望がもたらした根深い不信感と、それでも信じたいと叫ぶ魂の祈り。

 その二つがせめぎ合い、彼の声を頼りなく震わせる。

 名医ですら匙を投げたこの難病を、目の前のダンジョンで目覚めたばかりの不思議な少女が、治せるというのか。


 ルナは彼の激しい動揺を意に介さず、再び視線を眠る美咲の小さな手に落とした。


「この子の身体からは、魔力と一緒に、とても微弱な『生命力』が常に漏れ出しているの」


 彼女は、まるで当たり前の物理法則を語るかのように、静かに、しかし明瞭な言葉を紡いだ。


「生命力……?」


 翔は思わず聞き返した。


 魔力、ダンジョン、アーティファクト。


 そんなファンタジーのような言葉が日常になった現代においても、「生命力」という言葉はどこか御伽噺の響きを持っていた。

 少なくとも、最新の医療機器に囲まれたこの白い病室で、医師でもない少女の口から語られるには、あまりに場違いな単語だった。


「ええ。全ての生き物が、その魂の器に宿している根源的な力、とでも言うべきもの。この子は、その魂の器に微細な亀裂が入っているせいで、魔力と一緒にその生命力を身体に留めておくことができない。まるで、底に小さな穴が空いた水瓶みたいに。そこから、魔力とそれに付随する命の源である生命力が、少しずつ、少しずつ漏れ出している……」


 ルナの声は穏やかだったが、そこには揺るぎない確信と、深い哀しみを帯びた響きがあった。

 彼女は翔の目をまっすぐに見つめ、続けた。


「これは『魔力欠乏症』なんかじゃない。もっと根源的な『生命力の摩耗』。今の彼女は、その生命力がほとんど枯渇しかけている状態。このままじゃ、どんなに栄養を点滴で補っても、どんなに高価な薬を使っても、根本的な解決にはならない。注がれた水はただ漏れ続けるだけ。彼女の命の灯は、そう遠くないうちに……消えてしまう」


 翔の心臓が、警鐘のように激しく脈打った。

 ルナの言葉の一つ一つが、鋭い真実の矢となって彼の胸に突き刺さる。


 荒唐無稽だ。

 非科学的だ。

 そう一蹴してしまいたかった。


 だが、できなかった。


 目の前の少女のサファイアの瞳に宿るあまりにも真摯な光が、それを許さない。

彼女がこれまで見せてきた、地球の常識では測れない知識の断片。


それらが、彼女の言葉に否定しがたい重みと、抗いがたい説得力を与えていた。


 何より、彼女の診断は、これまでの美咲の状態と不思議なほど符合していた。

 どんな治療を施しても、まるで灼熱の砂漠に水を撒くように効果がなく、ただ緩やかに衰弱していく一方だった妹の姿。


 医師たちが「原因不明の進行性魔力消耗疾患」と首を捻り続けた病の正体が、今、目の前で解き明かされようとしていた。


「もし……もし、それが本当なら……」


 翔の声は、もはや絶望に沈んだ男の声ではなかった。

 白日の下に、ようやく一条の光を見出した者の声だった。


 それがどれほど細く、頼りない蜘蛛の糸であっても、今の彼にとっては全てだった。


「どうすればいい!? どうすれば、美咲を助けられるんだ!?」


 彼は椅子を蹴るようにして半ば立ち上がり、ベッド越しにルナに詰め寄っていた。

 その形相は、懇願と焦燥がないまぜになった、凄まじいものだった。


 ルナはそんな彼を静かに受け止めていた。


 彼女のサファイアの瞳は、翔の燃え立つような焦りと、その奥で芽生え始めたばかりの小さな、しかし確かな希望の光を、静かに、そして確かに映し込んでいた。

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