第二十六話 病院へ②
滑るように開いた総合病院の自動ドアをくぐる。
ひんやりとした空気が肌を撫で、独特の消毒液の匂いが鼻腔を満たす。
どこまでも続くかのように思える長い廊下を、蛍光灯の白い光が照らし出していた。
時折、廊下の奥から聞こえてくる、医療機器の規則正しい電子音や、ナースステーションの電話の呼び出し音、そして看護師たちの慌ただしい足音が、この場所が常に緊張と隣り合わせであることを示していた。
翔は汗で額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げると、一直線に受付カウンターへと向かった。
周囲の視線が自分に集まっているような気がしたが、もはや気にする余裕はなかった。
バックパックをカウンターに下ろすことなく、赤ん坊を抱くように胸にきつく抱えたまま、息を整える間もなく受付職員に声をかけた。
「すみません、妹の……入院している妹の、医療費の支払いを、お願いします」
声が、自分でも驚くほど震えていた。
緊張と、ここまで走り続けたことによる息切れのせいだった。
カウンターの向こう側に座っていたのは、銀縁の眼鏡をかけた、四十代半ばほどの女性職員だった。
彼女は手元の書類から顔を上げ、翔の必死な形相を一瞥した。
その目には、日々多くの患者やその家族と接してきた者特有の、わずかな疲労と、そして一瞬の同情の色が浮かんでいた。
「はい、医療費のお支払いですね。請求書と診察券、患者様のお名前をお願いできますか」
彼女の口調はあくまで事務的だったが、その声色には冷たさはなかった。
翔は震える手で財布から妹の診察券と請求書を取り出し、差し出す。
「及川……美咲です」
職員が端末を操作する間、翔は意を決してバックパックのファスナーを開けた。
そして、まるで聖なる儀式でも執り行うかのように、札束を両手で取り出した。
周囲で待っていた他の患者や、通りかかった職員たちの息を飲む気配が伝わってくる。
誰もが、ボロボロの青年に不釣り合いな現金の束と、それを差し出す鬼気迫る姿に目を奪われていた。
翔は他人の目など意に介さず、その札束を一枚ずつ数え、カウンターの上に、トン、と置いた。
「これで、お願いします」
自分の全てを差し出すかのようなその動作に、女性職員もさすがに目を丸くした。
しかし、彼女はすぐにプロとしての冷静さを取り戻すと、無言で頷き、現金を数えるためのトレーにその札束を慎重に移した。
「……お預かりいたします。少々お待ちください」
彼女はそう言うと、トレーを抱えて静かに席を立ち、奥の会計室へと消えていった。
待っている数分間が、永遠のように長く感じられた。
翔はその場で立ち尽くし、ただただ職員が戻ってくるのを待った。
心臓の音が、静かなロビーに響いているのではないかと錯覚するほどだった。
やがて、戻ってきた職員の表情は、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
彼女は領収書と、お釣りであろう数枚の紙幣をカウンターに置くと、眼鏡の奥から翔の目をまっすぐに見つめた。
「及川様。確かに、七十八万円、お預かりいたしました。これで、当面のお支払いは大丈夫です」
そして、彼女は少しだけ声を潜め、言葉を続けた。
「ここ最近、政府の方針転換もあって、難病の方々への補助金が削減された、と聞いています。皆様、大変な状況だと存じております。……お兄様も、あまり無理はなさらないでくださいね」
その言葉は、マニュアル通りの対応ではなかった。
事務的な役割を超えた、一人の人間としての温かい響きがあった。
張り詰めていた緊張の糸が、その一言でぷつりと切れた。
「……はい。……ありがとう、ございます」
翔が絞り出した声は、感謝と安堵でかすれていた。
彼は深く、深く頭を下げた。
領収書を受け取ったその瞬間、全身から力が抜け、膝が笑った。
ぐらりとよろめいた体を、カウンターに手をついてかろうじて支える。
深い、心の底からの安堵のため息が漏れた。
バックパックが、急に軽くなったように感じられた。
「これで……ひとまず、大丈夫だ……」
その呟きは、誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
妹の命は、繋がった。
その事実が、疲弊しきった心と体にじんわりと染み渡っていく。
その頃、翔から少し離れた壁際に立っていたルナは、病院というシステムそのものを静かに観察していた。
忙しなく行き交う医師や看護師たちの動き。
患者の腕に繋がれた点滴のチューブを流れる透明な液体。
壁際に設置されたモニターに映し出される、複雑な波形と数字の羅列。
この世界の「医療」と呼ばれる行為の全てが、彼女にとっては新鮮だったようだ。
彼女のサファイアの瞳には、純粋な好奇心と、翔が安堵したことへの穏やかな共感が、静かに同居していた。
やがて、落ち着いた翔が顔を上げ、ルナの方へ歩き出した。
だが、その一部始終を廊下の奥のソファーに座った一人の男が冷たい視線で見ていた。
間宮。
翔にギルドで絡んでいたあの男。
彼は数日前、ダンジョンでスタンピードに巻き込まれ、命からがら逃げ出した探索者の一人だった。
オークに追われ、転倒した際に足を骨折し、この病院で治療を受けていたのだ。
松葉杖をつき、包帯でぐるぐる巻きにされた足が痛々しい。
間宮は、翔が受付職員に頭を下げ、大金を差し出しているのを見た。
状況はわからない。
だが、同年代の、しかも自分より格下のFランク探索者であるはずの翔が、この混乱の最中に、何らかの大金を手にしたであろうことは容易に想像がついた。
自分は重傷を負い、この先、当分探索者として活躍できない。
先の見えない不安と痛みの中で日々を過ごさなければならないというのに。
なぜ、あいつは。
なぜ、あの無属性が。
間宮の目に、どす黒く、嫉妬と憎悪が入り混じった暗い炎が灯った。
彼は松葉杖を握る手に力を込め、その場から立ち上がった。
蛍光灯の白い光が、彼の歪んだ表情を冷たく照らし出していた。
翔とルナは、その濁った視線に気づくことなく、安堵感に包まれていた。
だが、彼らの運命の歯車は、この瞬間、また一つ、新たな軋みを立てて回り始めていた。
病院の空間に、不穏な影が静かに落ちていた。
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