第二十五話 病院へ①

 古物商『アラクネ』の扉が蝶番の軋む音を立てて開いた。

 薄暗い路地の空気は冷たく、どこかカビ臭い湿り気を帯び、翔の鼻腔を微かに刺激した。

 彼は一歩踏み出し、裏路地へと再び足を踏み出した。


 背後で、律子が昇り始めた日のまぶしさに目を細めながら立っていた。

 古物商『アラクネ』の店内から橙色の光が、彼女のシルエットを柔らかく縁取り、まるで古い絵画のような雰囲気を漂わせていた。


 彼女の髪は、風に軽く揺れ、肩に落ちる一房が光に透けて琥珀色に輝いた。

 翔は振り返り、胸の奥で何度も繰り返した言葉を、まるで命を吹き込むように心の底から絞り出した。


「律子……本当に、ありがとう。この恩は、必ず……」


「いいから、いいから」


 律子は軽く首を振って、翔の言葉を遮った。

 彼女の声は少し低く、かすかにハスキーで、しかし温かみに満ちていた。

 彼女の手はポケットに突っ込まれ、くだけた仕草とは裏腹に、その目は真剣に翔を見つめていた。


「ああ、そうだ! そのマナソード、預かってもいい?」

 

 律子はふと思い出したように、翔が背負っているアタッシュケースを指差した。

 

 「包帯を巻いただけの持ち手なんて可哀想だからさ、直しておいてあげるよ」


「え? いいのか」


 翔の眉が軽く上がり、驚きが入り混じった表情が浮かんだ。


 翔は背丈ほどもある無骨なアタッシュケースをそっと差し出した。

 

 ケースの表面は使い込まれ、角は擦り切れて鈍い銀色が覗いていた。

 律子はそれを両手で受け取り、まるで古い宝物でも扱うかのように慎重に抱えた。


 ケースの重みが彼女の手首にわずかに食い込み、革の表面に刻まれた細かな傷が、店の明かりに照らされて浮かび上がった。


「じっくり見たいしね。気にしないで。昼過ぎには直せてると思うわ」


 律子はケースを脇に抱え、軽く笑みを浮かべた。

 その笑みには、どこか子供のような無邪気さと、確かな信頼が混ざり合っていた。


「ありがとう、本当にありがとう」


 翔の声は少し震え、感謝の言葉が空気に溶けていくようだった。

 彼の目は、律子の笑顔に引き寄せられるように一瞬留まり、胸の奥で熱いものがこみ上げるのを感じた。


「そんなことより、一秒でも早くお妹さんのところに行ってやんな」


 律子はぶっきらぼうに手を振って言葉を遮ったが、その口元には確かな友愛の笑みが浮かんでいた。

 その笑顔は温かく力強かった。

 彼女の瞳には、翔を案ずる光が宿っていた。


 その笑顔に背中を押されるように、翔はもう一度深く頭を下げた。

 彼の髪が額に落ち、夜の冷気が頬を撫でるのを感じながら、今度こそ固い決意を顔に滲ませて踵を返した。


 石畳を踏む靴音が、裏路地の静寂に響き合う。

 遠ざかる彼らの背中を、律子の視線が静かに見送った。


 軋む扉が完全に閉まり、喧騒が戻る。

 翔はバックパックのストラップを、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。

 

 少し軽くなったが確かに重いバックパック。

 それは単なる重さではない。

 

 妹・美咲の命を繋ぎ止めるための、希望そのものの重みだった。


 百万円。


 その数字が頭の中で何度も反響する。

 まるで夢を見ているかのような感覚と、一刻も早くこれを病院に届けなければならないという切迫感が、彼の心を交互に揺さぶった。


「行こう」


 背後で静かに佇んでいたルナに短く告げ、翔は歩き出した。

 裏路地の湿った石畳に、彼の焦りを映すかのように早足の靴音が響く。


 朝の冷気が汗の滲む額に心地よかったが、心臓はまるで警鐘のように激しく脈打っていた。

 高揚感と焦燥感が入り混じった奇妙な感覚。

 

 数時間前まで絶望の淵にいた自分が、今、妹を救うための大金を持って夜道を駆けている。

 この現実が、まだ信じられなかった。


 彼の数歩後ろを、ルナが音もなくついてくる。

 

 彼女の腰まで届く銀色の髪が、路地裏に差し込む光を拾って、まるで月光を練り込んだ絹糸のように淡く輝いていた。

 

 ダンジョンの深層で出会ってからまだ半日も経っていないというのに、彼女の存在は既に翔の中で当たり前のものになりつつあった。


 やがて、狭い路地を抜けると、世界は一変した。


 そこは、街の主要な幹線道路だった。

 スタンピードの爪痕は生々しく、歩道の脇には瓦礫がうず高く積まれ、ひび割れたアスファルトには応急処置の鉄板が敷かれている場所もある。


 それでも、街は死んではいなかった。


 復旧作業用の投光器はその明かりを落としていた。

 

 だが、町は活気づいていた。

 その下で重機の唸り声と作業員たちの怒号が響き渡っている。


 行き交う車や人々の喧騒が、まるで力強い生命の鼓動のように空気を震わせていた。

 瓦礫の撤去作業で撒かれている水と砂埃の匂いが混じり合い、この街が今まさに傷つきながらも再生しようとしていることを物語っていた。


 ルナはその光景に、わずかに目を細めた。

 初めて見るであろうこの世界の喧騒。

 けたたましいクラクションの音、遠くで鳴り響くサイレン、剥き出しの鉄骨がぶつかり合う甲高い金属音。


 それら全てが、彼女のサファイアの瞳に映り込む。


 だが、彼女の視線はすぐに、人混みの中を進む翔の背中に戻った。

 その瞳には、彼の安否を気遣う静かな光が宿っていた。


 雑踏の中、彼女の凛とした存在は、まるで一枚の精巧な絵画が現実世界に紛れ込んだかのように、どこか浮世離れして見えた。


 病院へと続く歩道橋の階段を駆け上がろうとした、その時だった。


 翔の足がふと、縫い付けられたように止まった。


 百万円を手にしたという事実が、今更ながらに現実味を帯びて彼の全身を襲ったのだ。


 本当に自分は大金を手に入れたのだろうか。

 この金は、結局抱えていた金銭問題のタイムリミットをあと伸ばしにするだけじゃないか、と。

 希望を手にしたはずなのに、その希望の大きさに比例して、もしも、という不安が鎌首をもたげる。


「翔、大丈夫?」


 すぐそばで、鈴を転がすように澄んだ声がした。

 ハッと我に返ると、ルナが心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。

 人混みの喧騒の中にあって、彼女の声だけは不思議なほどはっきりと翔の耳に届いた。

 そのサファイアの瞳が、まっすぐに自分を射抜いている。


「あ……ああ、大丈夫だ。ありがとう、ルナ」


 翔は、乾いた唇を無理やり引き上げて笑みを作った。

 その笑顔は、ひどくぎこちなく、疲れと緊張で強張っていたが、嘘ではなかった。


 ルナの気遣いが、張り詰めていた心の弦をわずかに緩めてくれた。

 そうだ、自分は一人じゃない。

 この不思議な少女が、そして店で待つ律子が、自分を支えてくれている。


 その事実が、冷たい風に吹かれる心に小さな火を灯した。


「行こう、急ぐぞ」


 彼は自分に言い聞かせるように力強く言うと、再び足を踏み出した。

 今度はもう、迷いはなかった。


 人々の肩をかすめ、流れに逆らうように進む。

 目的の病院は、もうすぐそこに見えていた。


 白く巨大な建物が白く輝いていた。


 あれが、妹の命が繋がれている場所。

 希望と絶望が交差する目的地だ。

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