第六話 深まる絶望

 身体的な痛みは、澪のポーションによって完全に消え去っていた。


 だが、心の奥深くに刻まれた疲労と屈辱感は、鉛のように重くのしかかっていた。

 ギルドから受け取った報酬を強く握りしめてアパートへの道を歩く。


 街の明かりが、やけに目に染みた。


 ギシ、ギシ、と悲鳴を上げる古い木造アパートの階段。

 その一歩一歩に、もはや痛みはない。

 だが、その代わりに、一歩進むごとに自分の惨めさが浮き彫りになるようだった。


 自室のドアの前に立ち、錆びついたポストを覗き込むと、一枚の封筒が窮屈そうに押し込まれていた。

 見慣れない、少し上質な紙の封筒。


 嫌な予感が、冷たい手で心臓を鷲掴みにする。

 震える手で鍵を開け、部屋に入る。


 壁のスイッチに手を伸ばし、いつもの癖で押した。

 

 パチン。

 

 暗闇の中で、空虚な音だけが響いた。


 ああ、そうか。

 ついに電気も止められたのか。


 もはや驚きもなかった。

 ただ、じわりと絶望が足元から這い上がってくる。


 深呼吸を一つして、スマートフォンの頼りないライトを灯し、ポストから取り出した封筒に光を当てる。

 差出人は、大学病院だった。


 震える指先で封を開ける。

 中から現れたのは、一枚の請求書と、一通の手紙。

 そこに並んだ冷たい活字を、スマートフォンの光がなぞっていく。


 請求書の金額は、これまでの稼ぎでは到底支払えるはずもない額だった。

 そして、その下に添えられた手紙に、決定的な一文があった。


『――さて、先般よりご相談申し上げておりました件、誠に遺憾ながら、政府からの魔力難病指定患者に対する医療補助金が、先日の予算再編に伴い、減額となることが正式に決定いたしました。つきましては、来月以降、令妹・美咲様の治療を継続されます場合、治療費の自己負担が三割から五割となります。何卒、ご理解いただけますよう……』


 スマートフォンのライトが、その一文の上で何度も、何度も往復する。


 頭が、真っ白になった。

 理解が、追いつかない。

 政府の補助金が、減額?

 自己負担が増える?


 ふ、と指から力が抜け、持っていた請求書がはらりと床に落ちた。

 スマートフォンのライトが、白い紙の上に踊る、あまりにも無慈悲な数字を照らし出している。


 暗闇の中、翔はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 暗闇と静寂だけが支配する六畳一間の部屋で、翔はただ、ぼんやりと床の一点を見つめていた。


 脳裏に、これまでの出来事が駆け巡る。

 

 間宮の嘲笑。

 遠巻きに見ていた連中の顔。

 橘澪の、同情を浮かべた美しい瞳。


 そして、病院のベッドで静かに眠り続ける妹のあどけない寝顔が思い浮かんだ。


 ふと、橘澪の最後の言葉が蘇る。


『無茶だけはしないで。あなたのような人は、いつか必ず限界が来る』


(無茶をするな……?)


 その言葉が、今や最大の侮辱のように胸に突き刺さる。

 乾いた笑いが、喉の奥から込み上げてきた。


(もう、そんな選択肢はどこにも残っちゃいないじゃないか……!)


 床に散らばった請求書を、まるで忌々しい過去の亡霊でも振り払うかのように踏みしめて、翔は静かに立ち上がった。

 その瞳には、もはや絶望の色はなかった。


 それを通り越し、全てが燃え尽きた後に残る、乾いた決意の光だけが宿っていた。


 カラーボックスで作られた粗末な本棚から、表紙が擦り切れた一冊のダンジョン攻略本を抜き出す。

 ページをめくる指には、もう迷いはない。


 彼が足を踏み入れるには推奨ランクが足りない、禁断の領域。

 【習志野ダンジョン・中層エリア】のページを開いた。

 

 そこには、ジャイアントラットやゴブリンとは比較にならないほど凶悪なモンスターのイラストが、詳細なデータと共に掲載されている。


『オーク:Dランクモンスター。驚異的な膂力を持ち、並の金属鎧は紙のように引き裂く』


 ページの隅には、「単独探索はCランク以上推奨」「探索者の死亡率急増」の赤い警告文。


 しかし、その絶望的な情報の横には、眩いばかりの希望が並んでいた。


『ドロップ品:中純度魔石(一〇グラムあたり八千円)、金属製の棍棒(一本当たり約一万二千円)、そして、稀にアーティファクト(時価)』


 リスクとリターン。

 天秤は、とうの昔に壊れていた。


 翔は、壁に立てかけられた傷だらけのアタッシュケースを手に取った。

 中から、相棒ともいえる中古のショートソードを取り出す。

 乾いた布で、刀身にこびりついた汚れを丁寧に拭い、砥石で刃を研ぎ澄ませていく。

 シュッ、シュッ、と響く冷たい金属音だけが、彼の覚悟も研いでいく。


 手入れを終えた剣を鞘に納め、机の上に視線を移す。


 そこには、一枚の写真立て。


 優しい両親と、幼い自分、そして――ヒマワリのように笑う妹の美咲。

 その笑顔に、そっと指で触れた。


「美咲……兄ちゃんが、必ず助ける。だから……待っててくれ」


 誰に言うでもない約束を、決意と共に呟く。


 翔は暗闇の部屋を後にした。

 ギシリ、と軋む音を立ててドアが閉まる。


 向かう先は、再び【習志野ダンジョン】。


 だが、今度は日銭を稼ぐためではない。

 自らの命と引き換えに、この泥沼のような日常から抜け出すための、全てを賭けた死地へ――。


 夜の闇が、彼の悲壮な覚悟を纏った背中を静かに飲み込んでいった。




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